静岡高等学校
(静高)
創立1922年8月24日
所在地静岡市
初代校長金子銓太郎
廃止1950年
後身校静岡大学
同窓会
旧制静岡高等学校(きゅうせいしずおかこうとうがっこう)は、1922年(大正11年)8月静岡市に設立された官立旧制高等学校。略称は「静高」(しずこう)。 文科・理科よりなる修業年限3年の高等科が設置された。仏語を第一外国語とする丙類が置かれた旧制高等学校であった。新制静岡大学の前身校の一つであり、静岡大学文理学部の構成母体となった。その後文理学部は、静岡大学人文学部(2012年に人文社会科学部に改称)と理学部に発展改組、旧制静岡高等学校の有形無形の伝統を受け継いで現在に至っている。 寄宿舎として「秀峰富士を仰ぐ」という意の「仰秀寮」が設置された。ほぼ完全な寮自治が行われ、生協に倣って、早くから自炊制度が導入された。 入学者は静岡県出身者が最も多く、東京府出身者がこれに次いだ。東京帝国大学への進学率の高さは、一高・浦高に次ぐ第3位の進路実績であり、卒業生の大部分を東京帝大生で占めていた[1]。 旧制静岡高等学校の校地は、駿府城公園(駿府城址)の北側、賤機山の東麓に位置していた。静岡大学発足後は、旧制静岡高等学校の後身である文理学部のキャンパスとして継承されたが、1968年に、静岡大学が静岡市駿河区大谷に統合移転したため、校地は廃止された。跡地は静岡市に譲渡、整備され、1985年に静岡市立城北公園が開園、静岡市立中央図書館を置くなど市民の憩いの場として現在に至っている。旧本館があった位置には、花時計があり、旧制静岡高等学校を記念するモニュメントとして、正門のあった位置に「留魂碑」、園内には、「静陵輝像」「寮歌碑」などのモニュメントが建立されている。また、旧制静岡高等学校寄宿舎「仰秀寮」は、静岡大学仰秀寮として継承されたが、上述の統合移転後は、静岡市駿河区小鹿三丁目にある静岡大学雄萠寮に、仰秀寮で使用されていた寮名(3階「不二寮」、2階「穆寮」、1階「映寮」、4階「魁寮」、5階「悟寮」)、寮歌「地のさゞめごと」、ストームなどの伝統として継承されている。
概要
沿革
1922年8月:設立。安倍郡安東村大岩(現:葵区大岩本町29番)に校舎を構える。
1923年4月:授業開始[2]。
1924年4月:寄宿寮開設。校歌制定[2]。
1930年5月:昭和天皇の静高訪問に伴う弾圧事件。
学生による「某名士来る」のビラを押収、学生14名検挙(うち3名放校、7名退学)。
1945年6月:空襲で校舎の一部焼失[2]。
1948年4月:女子学生2名入学[2]。
1949年5月:新制静岡大学発足にともない包括。
1950年3月:廃校。
校地の変遷と継承留魂碑
歴代校長
金子銓太郎:1922年8月28日[3]- 1925年3月31日[4]
塚原政次:1925年3月31日[4] - 1927年4月13日[5]
堀重里:1927年4月13日[5] - 1933年9月27日[6]
金子健二:1933年9月27日[6] - 1939年7月31日[7]
三谷隆正:1939年7月31日[7] - 1939年10月14日[8]
田中経太郎:1939年10月14日[8]- 1943年9月30日[9]
織田祐萠:1943年9月30日[9] - 1945年10月15日[10]
朝比奈策太郎:1945年10月15日[10] - 1946年2月23日[11]
木宮泰彦(事務取扱):1946年2月23日[12]- 1946年3月16日[11]
大室貞一郎:1946年3月16日[13]- 1950年3月31日[14]
出身者
政官界
中曽根康弘 - 内閣総理大臣 / 大勲位
足立篤郎 - 農林大臣、科学技術庁長官
森山欽司 - 科学技術庁長官、運輸大臣、元外交官
原田昇左右 - 建設大臣、元運輸官僚
大坪健一郎 - 元自由民主党衆議院議員、元労働官僚
吉村真事 - 元自由民主党衆議院議員、元運輸省港湾局長
木宮和彦 - 元自由民主党参議院議員、学校法人常葉学園学園長
久保田豊 - 元日本社会党衆議院議員
河上民雄 - 元日本社会党衆議院議員 / 河上丈太郎の子・日本社会党国際局長
山田芳治 - 元日本社会党衆議院議員、元京都府副知事
竹田四郎 - 元日本社会党参議院議員
栗原俊夫 - 元日本社会党衆議院議員・参議院議員
正森成二 - 元日本共産党衆議院議員
青木茂 - 元参議院議員、サラリーマン新党党首
永原稔 - 元新自由クラブ衆議院議員 / 元静岡県副知事
星野芳樹 - 中退、元労働者農民党参議院議員、ジャーナリスト / 星野直樹の弟
斎藤寿夫 - 静岡県知事
土屋香鹿 - 福岡県知事