声優の「青野武」とは別人です。
青野 毅千葉スカイセイラーズ ヘッドコーチ #71
2024年4月20日 四街道総合公園にて
基本情報
国籍 日本
出身地鹿児島県川辺郡坊津町大字坊 (現:南さつま市坊津町坊)[1]
生年月日 (1983-01-12) 1983年1月12日(41歳)
身長
体重178 cm
83 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手、二塁手、外野手、一塁手
プロ入り2000年 ドラフト5位
初出場2002年5月12日
最終出場2012年8月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
樟南高等学校
千葉ロッテマリーンズ (2001 - 2013)
コーチ歴
樟南高等学校
千葉スカイセイラーズ(2023 - )
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。
青野 毅(あおの たけし、1983年1月12日 - )は、鹿児島県出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)、野球指導者。 鹿児島県川辺郡坊津町大字坊(現:南さつま市坊津町坊)出身[1]。坊泊中学校を経て、樟南高校に入学。高校時代はエースで4番打者として夏の甲子園大会でも活躍、高校日本選抜にも選出された。当時は外野手を兼ねていて、野手としても評価は高かった。2年生時は1学年上の上野弘文-鶴岡慎也のバッテリーとともに自身は外野手として出場。樟南高校3年時はエースで主将で4番。 2000年オフ、千葉ロッテマリーンズにドラフト5位で投手として指名を受け入団した。2001年、入団と同時に野手に転向。 2005年までの5年間は完全に二軍暮らしで、一軍では2年目の1打席のみ。パンチ力のある打撃は期待されていたが、確実性がなく一軍から声がかからなかったが、徐々に二軍の中心選手として地位を上げ、2005年には2軍でチーム最多の92試合に出場し、打率.286、7本塁打、10盗塁の活躍でファーム日本一に貢献した。 2006年、4月15日に堀幸一の代役で一軍への昇格を果たすと、その日の西武ライオンズ戦で「2番・三塁手」で即スターティングメンバー出場。9回にプロ初安打を記録した。6月14日の横浜ベイスターズ戦の4回裏に那須野巧からプロ初本塁打となる満塁本塁打を左翼席に記録した。7月1日にも福岡ソフトバンクホークス戦で2回裏に田之上慶三郎から満塁弾を放った。プロ入り1号・2号がともに満塁本塁打なのは史上初である[2]。この活躍もあり中盤から二塁手・三塁手として一軍に定着を果たし、64試合に出場、打率.275を記録した。守備では一塁手2試合、二塁手43試合、三塁手12試合、外野手3試合を守った。二軍でも少ない出場試合数ながら打率.321、8本塁打を記録した。現役時代 2009年8月26日ロッテ浦和球場 2007年、4月30日の対西武戦(グッドウィル)では、ホームランを打った際にチームメイトのフリオ・ズレータのパフォーマンス「幕張ファイヤー!」を捩り「桜島ファイヤー!」なるパフォーマンスを披露した。更にこれを図案化したTシャツも製作された。シーズン序盤に打率4割を超え、一時は首位打者に立つなど驚異的な活躍を見せた。守備でも一塁手6試合、二塁手21試合、三塁手41試合、遊撃手1試合、外野手17試合と、あらゆるポジションを守った。しかし後半戦は手首・肩の故障に泣かされ二軍落ちし、レギュラーは確保できなかった。 2008年、前年に負傷した肩を手術し、リハビリテーションに専念した。結局一軍出場はなかった。 2009年も一軍での出場機会はなかったが、二軍では33試合に出場した。 2010年、3年ぶりの一軍初出場を果たし、本塁打も放つものの、シーズンわずか2安打に終わってしまった。 2013年、肩の故障の影響もあって10月3日に球団から戦力外通告を受けるが、現役続行を希望[3]。
来歴・人物
プロ入り前
ロッテ時代