青蓮院
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この項目では、京都市東山区にある寺院について説明しています。その他の用法については「青蓮院 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

青蓮院
宸殿
所在地京都府京都市東山区粟田口三条坊町69-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度0分26.32秒 東経135度46分59.51秒 / 北緯35.0073111度 東経135.7831972度 / 35.0073111; 135.7831972座標: 北緯35度0分26.32秒 東経135度46分59.51秒 / 北緯35.0073111度 東経135.7831972度 / 35.0073111; 135.7831972
山号なし
宗派天台宗
寺格京都五ケ室門跡[1]
本尊熾盛光如来
創建年久安6年(1150年
開山最澄
別称青蓮院門跡
旧粟田御所
札所等近畿三十六不動尊霊場第19番
神仏霊場巡拝の道第115番(京都第35番)
文化財不動明王ニ童子像(国宝
木造兜跋毘沙門天立像、往生要集円仁自筆書状ほか(重要文化財
公式サイト ⇒天台宗 青蓮院門跡
法人番号7130005001899
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宸殿前庭、右近の橘、左近の桜

青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口(あわたぐち)にある天台宗寺院山号はなし。本尊熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)とも称する。開山は伝教大師最澄、現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃
概要

青蓮院は、梶井(現・三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院である(天台三門跡)。「門跡寺院」とは皇族摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王入道親王(皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を務め、格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動[注釈 1]の1つ「青不動」のある寺としても知られる。
歴史

梶井、妙法院などと共に、青蓮院も比叡山上にあった房(坊)と呼ばれる小寺院がその起源となっている。青蓮院は比叡山東塔の南谷(現・延暦寺第三駐車場)にあった最澄が建立した青蓮坊がその起源である。青蓮坊は慈覚大師円仁安恵相応などの著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊であった。

山下に移ったのは平安時代末期、青蓮坊の第12代行玄大僧正の時で、移転先は現在地のやや北西にあたる三条白川の地である。久安6年(1150年)に鳥羽上皇皇后美福門院は行玄に帰依して青蓮坊を祈願所とした。このため、この頃から寺格が上がり始めた。その上、鳥羽上皇は第7皇子の覚快法親王を行玄の弟子として入寺させている。これ以降、当院は門跡寺院となり皇族や摂家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。

青蓮坊は院の御所に準じて都に殿舎を造営し、青蓮院と改称する。とはいえ、山上には青蓮坊がそのまま残されており、廃絶する室町時代まで寺籍は保たれていた。

行玄の没後は行玄の庇護者であった鳥羽法皇の皇子である覚快法親王が第2世門主となったが、その後継者については九条兼実が弟である慈鎮和尚慈円に譲らせようと覚快に圧力をかけ、他の弟子への継承を考えていた覚快がこれに反発し、更に行玄から覚快への継承に不満を抱いていた覚快の兄弟子である実寛も自身への継承を求めるなど紛糾したが、覚快の没後に慈円への継承が決まった[2]

その後、鎌倉時代になると三条白川の地にあった当院は、白川の氾濫を避けて高台となっている現在地へと移った。ここはもと十楽院という寺があった場所である。当院の南東にある花園天皇陵は「十楽院上陵」(じゅうらくいんのうえのみささぎ)と呼ばれているのがその名残である。

1220年代までには梶井門跡(現・三千院)と並ぶ門跡としての地位が確立されたとみられ[3]、更に宝治2年(1248年)閏12月29日に出された後嵯峨上皇院宣に初めて「青蓮院門跡」という呼称が登場することになる[注釈 2]。その一方で、慈円の後継者を巡る争いをきっかけに青蓮院内に2つの派閥が形成され、後醍醐天皇の仲裁で第16世門主である慈道法親王が第17世門主の尊円法親王に門跡の地位を譲るまで100年以上も門主の地位を巡る内紛が続いている[注釈 3][5]

歴代住職のうち、第3世門主の慈鎮和尚慈円は歴史書『愚管抄』の著者として著名である。慈円は関白藤原忠通の子で、歌人としても知られ、天台座主を4度にわたって務めている。また第17世門主の尊円法親王伏見天皇の第6皇子で、名筆家として知られる。尊円法親王の書風は「青蓮院流」と呼ばれ、江戸時代に広く普及した和様書風「御家流」の源流である。

室町時代には後に室町幕府第6代将軍足利義教となる義円が門主を務めた。

また衰微期の本願寺が末寺として属し、後に本願寺の興隆に尽くした蓮如もここで得度を受けている。

江戸時代天明8年(1788年)、天明の大火内裏が焼失した折には、青蓮院が後桜町上皇の仮仙洞御所となった。このため青蓮院旧仮御所として国の史跡に指定されている。

1872年明治5年)11月、9月に設立されたばかりの療病院(現・京都府立医科大学附属病院)が青蓮院内に移転して活動を始めるが、1880年(明治13年)7月に現在地に移転していった。

1893年(明治26年)大火災が発生し、大部分の建物が失われてしまった。しかし、その後復興が行われる。

1993年平成4年)4月25日には過激派(中核派)の放火により茶室「好文亭」が焼失したが、2年後に再建されている。

戦後、香淳皇后の弟にあたる東伏見慈洽が門主となったが、復興に努力した執事長との争いがこじれ、ストライキ騒ぎが起きたり、日本労働組合総評議会が門前に赤旗を並べたこともあった。多くの文化財が青蓮院の所有を離れた経緯が不明瞭であるとして国会で追及されたこともある[6]。晩年の慈洽は世襲が想定されていない青蓮院門主の地位を息子の慈晃に譲ろうとして、これを阻止しようとする天台宗教団と軋轢を生じた。最終的には要求が容れられなければ青蓮院を天台宗から脱退させるという慈洽の強硬な態度に天台宗側が屈服し、慈晃の門主世襲が実現することになった。慈晃の跡は現在執事長を務めている子息の慈晋への継承が予定されている。
境内

門前の大クスノキ親鸞聖人の手植えと伝わる)小御所華頂殿の襖(木村英輝による)


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