青葉城幸雄
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青葉城 幸雄

稽古総見での元青葉城の不知火幸雄
(2011年12月23日)
基礎情報
四股名大庄司 幸雄→青葉城 幸雄
本名庄司 幸雄
愛称鉄人
生年月日 (1948-11-14) 1948年11月14日(75歳)
出身宮城県仙台市太白区
身長181cm
体重152kg
BMI46.40
所属部屋押尾川部屋(入門時は二所ノ関部屋
得意技左四つ、寄り、吊り
成績
現在の番付引退
最高位西関脇
生涯戦歴789勝841敗(134場所)
幕内戦歴429勝501敗(62場所)
優勝十両優勝1回
幕下優勝1回
敢闘賞1回
データ
初土俵1964年3月場所[1]
入幕1975年1月場所[1]
引退1986年7月場所[1]
引退後年寄・不知火
備考
金星1個(北の湖1個)
通算連続出場記録歴代1位(1630回)
2013年11月24日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

青葉城 幸雄(あおばじょう ゆきお、1948年11月14日 - )は、宮城県仙台市太白区出身で押尾川部屋(入門時は二所ノ関部屋)に所属した元大相撲力士。本名は庄司 幸雄(しょうじ ゆきお)。現役時代の体格は181cm、152kg。得意手は左四つ、寄り、吊り。最高位は西関脇1983年7月場所)[1]。愛称は「土俵の鉄人」。
来歴・人物

中学時代はサッカー部に所属していた一方で、小学5年生の頃から自転車サッカースパイクを買うために新聞配達を行っていた。この新聞配達を冬の雪の中でもひたすら行ったことが、健康面や精神面の修養に効果をもたらした[2]。相撲経験は皆無であったが、横綱大鵬のような力士になりたいと卒業直前に力士を志し、アルバイトで貯めた金で上京して大鵬が所属する二所ノ関部屋に出向き入門を許可された。卒業後に入門し、1964年3月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名に因んだ「大庄司」。

入門前に相撲経験がなかったため、幕下でやや苦労したが、1971年5月場所で十両に昇進した。そして、これを機に「大庄司」から、故郷・仙台市にある仙台城の別名に由来する「青葉城」へ改名。十両でも3年近く苦戦したが、1974年11月場所では上位で10勝5敗と大勝ちし、これを手土産に翌1975年1月場所にて新入幕を果たした。

幕内4場所目の同年7月場所では、終盤まで優勝争いに加わり、横綱・北の湖を破るなど活躍。最終的に、13勝2敗で優勝した同部屋の後輩・金剛に次ぐ12勝3敗という好成績を収め、生涯唯一の三賞(敢闘賞)を受賞した[1]。翌9月場所では、新三役となる小結に昇進するも、6勝9敗と負け越して1場所で平幕に逆戻り。同場所後には、押尾川親方(元大関大麒麟)の独立騒動に巻き込まれてしまい、押尾川部屋に移籍した。

もみ上げを伸ばした古武士を思わせる風貌と本格的な左四つの型に風格があり、ガッチリとした胸の厚い体格と腕力にも恵まれており、自分十分の型になると横綱・大関も苦戦させ、その地力は全盛期には大関を期待されるほどのものであったが、相撲の遅さが災いして力を出せずに土俵を割ってしまうことも多かった。また、対戦力士に気を遣い過ぎる面もあり、「北の湖二世」と呼ばれて将来を嘱望された小沼を負傷させた際にはかなり気落ちして、しばらくは成績も伸び悩んだという。

1980年11月場所では十両に陥落したものの、1981年7月場所で十両優勝を果たしたのを機に翌9月場所、幕内へ復帰。再入幕に1年近くを要したが、吊り技に磨きをかけ、1983年7月場所では最高位となる西関脇まで番付を上げた。青葉城にとっては、1975年9月場所以来、47場所ぶりの三役へのカムバックであった。これは、三役陥落から同復帰までの場所数では、現在でも大相撲史上1位の記録。また、34歳8ヵ月という年齢での新関脇昇進は三賞制定後の1947年以降では、3位の年長記録を誇る[注 1]。その他、初土俵から関脇初昇進までにかかった年数と所要場所数に於いては、現在(※2014年9月現在)でも歴代1位の記録である。なお、同場所では4勝11敗と大きく負け越し、三役では1度も勝ち越せずに終わった。

丈夫で長持ちを地で行くような相撲人生であり、三役から陥落した後も長く幕内上位で相撲を取り続けたが、次第に体力の衰えが隠せなくなり1986年3月、再び十両に陥落。そして、同年7月場所11日目、幕下の綛田(後の関脇・栃乃和歌)に敗れた一番を最後に現役を引退した[注 2]。引退会見では「あんなアンちゃん(綛田)に負けるのか」と語っていた。

「休場は棄権」という信条を持っており[1]、15歳6ヵ月で序ノ口に付いてから37歳8ヵ月で引退するまでの約22年間に渡って休場が1度もなく「丈夫で長持ち」と言われ、初土俵(序ノ口)以来の連続出場記録保持者としてギネスブックにも登録された。引退してからもなお、停年に至るまで内臓疾患と無縁の健康体が取り柄であり、この長所は大記録と決して無関係でないと言える[3]

引退後は年寄・不知火を襲名し、押尾川部屋、尾車部屋の部屋付きの親方として後進の指導に当たった。特に、18年間継続して巡業部の職務を担当したことが年寄としての主だった貢献であった。

又、2006年2月から2008年9月まで監事、職制変更に伴い同年10月から2012年1月までは副理事を務めた。NHKの大相撲放送では、千秋楽の中入り後解説(向正面)を担当することが多かった。2013年11月場所中に65歳の誕生日を迎え、同場所限りで日本相撲協会を停年(定年)退職した。その11月場所中、5日目の大相撲中継で、ゲストとして登場した際に前述の独立騒動を印象深く思っていると話していた[4]
主な戦績

通算成績:789勝841敗 勝率.484

幕内成績:429勝501敗 勝率.462

現役在位:134場所

幕内在位:62場所

三役在位:2場所(関脇1場所、小結1場所)

金星:1個(北の湖:1個(1975年7月場所))

連続出場回数:1630回(歴代1位。通算出場回数としては、歴代8位。1964年5月場所 - 1986年7月場所)[1]

三賞:1回

敢闘賞:1回(1975年7月場所)


各段優勝

十両優勝:1回(1981年7月場所)

幕下優勝:1回(1970年11月場所)


場所別成績

青葉城 幸雄 一月場所
初場所(
東京) 三月場所
春場所(大阪) 五月場所
夏場所(東京) 七月場所
名古屋場所(愛知) 九月場所
秋場所(東京) 十一月場所
九州場所(福岡
1964年
(昭和39年) x (前相撲) 東序ノ口24枚目
3–4  東序二段131枚目
5–2  西序二段74枚目
3–4  東序二段84枚目
5–2 
1965年
(昭和40年) 西序二段33枚目
2–5  東序二段65枚目
4–3  西序二段35枚目
1–6  東序二段70枚目
2–5  西序二段87枚目
4–3  西序二段46枚目
3–4 
1966年
(昭和41年) 東序二段65枚目
5–2  東序二段25枚目
6–1  西三段目71枚目
5–2  西三段目29枚目
4–3  東三段目10枚目
4–3  西幕下89枚目
3–4 
1967年
(昭和42年) 西幕下98枚目
3–4  西三段目7枚目
4–3  西三段目39枚目
4–3  西三段目22枚目
3–4  西三段目30枚目
5–2  西三段目6枚目
4–3 
1968年
(昭和43年) 西幕下55枚目
4–3  東幕下44枚目
5–2  東幕下52枚目
5–2  東幕下39枚目
5–2  西幕下26枚目
3–4  東幕下31枚目
4–3 
1969年
(昭和44年) 西幕下25枚目
3–4  西幕下31枚目
4–3  西幕下25枚目
4–3  東幕下22枚目
5–2  東幕下10枚目
4–3  東幕下8枚目
4–3 
1970年
(昭和45年) 東幕下7枚目
2–5  西幕下15枚目
3–4  西幕下20枚目


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