この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "青海省"
この項目では、中華人民共和国の現行行政区画について説明しています。中華民国時代の省については「青海省 (中華民国)」をご覧ください。
青海省
略称: 青 (.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Q?ng)
簡体字青海
繁体字青海
?音Q?ngh?i
カタカナ転記チンハイ
省都西寧市
最大都市西寧市
省委書記王建軍(前省長)
省長信長星(代行、前省党委副書記)
面積721,000 km2 (4位)
人口 (2020年)
- 人口密度5,923,957[1] 人 (30位)
8.2 人/km2 (30位)
GDP (2017年)
- 一人あたり2642.8億[2]元 (30位)
44,348 元 (23位)
HDI (2014年)0.694 (中) (27位)
主要民族漢民族 - 54%
チベット族 - 23%
回族 - 16%
土族 - 4%
サラール族 - 1.8%
モンゴル族 - 1.8%
地級行政区8 個
県級行政区43 個
郷級行政区429 個
ISO 3166-2CN-QH
公式サイト
⇒http://www.qh.gov.cn/
青海省(チンハイしょう、せいかいしょう、中国語:青海省、?音:Q?ngh?i Sh?ng、英語:Qinghai、チベット語: ?????????????????、 モンゴル語:.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}???? この省の領域の大部分は、チベット人自身によるチベットの地方区分でいう「アムド地方」に属し、アムド地方の西部から中央部を占めており、東南部に位置するキクド(ジェクンド、玉樹)一帯のみ、カム地方に属する。またモンゴル人は、この地やそのモンゴル系住人を「デート・モンゴル
?????
????)は、中華人民共和国西部に位置する省。省都は西寧市。1928年に青海省成立。省名は、省内に国内最大の湖沼である青海湖があることにちなむ。
概要
この省の領域を枠組みとする地方行政単位の成立は、雍正帝のチベット分割にさかのぼる。清朝の雍正帝は、1723年から1724年にかけて、当時この地方を含むチベット全土を支配していたオイラト系モンゴル人のグシ・ハン一族を征服、彼らの支配下にあった七十九族と呼ばれる諸部族を、タンラ山脈を境に南北に分割、青海四十族と西蔵の三十九族に二分した。清朝は青海モンゴルや四十族などの諸侯を、西寧から支配、この枠組みは中華民国にも引き継がれ、青海省の基礎となった。中国の現行の行政区画としての西蔵と青海は、直接にはこの分割を起源としたものといえる。
歴史西寧市
古代の西戎の地で、漢代には姜族が占拠し、西羌(せいきょう)と呼ばれた。隋王朝は西海、河源などの郡を設置したが、吐谷渾(とよくこん)が勃興し、領域とした。7世紀には吐蕃(とばん)のチベットと唐王朝の中国の抗争の舞台となり、8世紀に大部分がチベット領となった。822年、チベットと中国の間で和平と国境を定めるための条約が締結され、青海湖の西南にある日月山が両国の国境と定められた。条約の文面はチベット語と中国語(漢文)の2ヶ国語で石碑に刻まれ、チベットの都ラサ、中国の都長安、日月山の3ヶ所に設置された。ラサに設置された石碑のみ、現在まで失われずに残り、「唐蕃会盟碑」として知られている。吐蕃の統治下で、この地に居住する諸種族の多くがチベット人としての自意識を持つようになって現在に至っている。
宋代(北宋・南宋)には吐蕃の末裔が樹立した青唐王国の拠点となったが、タングート系の西夏に併合されて滅亡した。17世紀半ば、西モンゴルオイラト部のグシ・ハンが配下を引き連れてチベットの各地に移住し、チベットを征服した際には、この地が本拠地となった。現在この省の中央部から北西部にかけて居住している青海モンゴル族は、この時移住してきたグシ・ハンの配下の末裔である。18世紀、清朝の雍正帝はグシ・ハン一族の内紛に乗じて青海地方に侵攻(いわゆる「ロブサンダンジンの乱」)、グシ・ハンの子孫たちを屈服させ、一族がチベット各地に保有していた権限、権益をすべて接収、青海モンゴル族は盟旗制により再編、チベット人諸侯たちには各級の「土司職の称号を与え、所領を安堵する」という支配体制を築いた。清末以来、ムスリム(イスラム教徒)の馬氏政権の支配下に置かれ、1928年、河西回廊の南部と会わせて「青海省」が設置されたのちも、遊牧地域では、従前とさほど変化のない社会構造が継続した。1950年代半ば、中国人民政府による民主改革が行われたのを契機に大規模な抗中蜂起が勃発、チベット動乱の引き金となった。1958年以降、原爆、水爆の開発が同省内でおこなわれている。2010年4月13日には青海地震が起こっている。 青蔵高原東北部に位置し、黄河、長江、メコン河の水源地帯となっている。省東北部に中国最大の内陸塩湖・青海湖がある。
地理