青江派
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青江派(あおえは)は、備中国青江(現・岡山県倉敷市)の日本刀刀工一派[1]平安末期に始まり、鎌倉南北朝時代に栄え、室町時代には衰退[2]
概要短刀 銘「銘備中国住次直作 延文三年十一月日」 南北朝時代・1358年の作品(末青江) 重要文化財 東京国立博物館蔵
備中鍛冶

吉備国(現在の岡山県を中心とする地域)は、古来鉄の産地として知られ、備前国(おおむね岡山県の南東部)には多くの刀工が存在したが、隣国の備中国(おおむね岡山県の西部)にも刀工集団が存在した[3]。古伝書『元亀目利書』によれば、備中鍛冶は刀工・安次(やすつぐ)を祖とする青江鍛冶と、則高(のりたか)を祖とする妹尾(せのお)鍛冶とに分かれるという[4]。青江は高梁川の下流、現在の岡山県倉敷市に位置する。現存刀の銘には、刀工の居住地として子位荘(こいのしょう)および万寿荘(まんじゅのしょう/ますのしょう)の地名がみられる。「備中国子位東庄青江助次作/正和元年六月日」と銘する太刀が現存し、青江が子位荘に位置していたことが明らかである。子位荘は墾田地系荘園、万寿荘は寄進系荘園とされるが、これらの詳しい沿革は不明であり、子位は万寿荘のなかの地名であったのか、子位荘と万寿荘は並存していたのかどうかも不明である[5]。なお、前述の妹尾は、現在の岡山市南区妹尾にあたる[6]
古青江・中青江・末青江短刀 銘 備中国住次直作(御家名物大青江) 延文五年二月日、南北朝時代・1360年の作品(末青江)、加賀国金沢藩前田氏伝来、特別重要刀剣

青江鍛冶は、平安時代末期から南北朝時代まで刀工を輩出しているが、室町時代以後は絶えている。青江の刀工は年代から古青江(こあおえ)、中青江(ちゅうあおえ)、末青江(すえあおえ)の3つに分けられる。古青江は鎌倉中期頃まで、末青江は南北朝時代の延文年間(1356 - 1360年)を中心とした時期の刀工を指し、これら2つについてはその特色がはっきりしている。これらの中間に位置するものを中青江と呼称している[7]

古青江は、その作風に著しい特色がある。太刀姿は腰元で大きく反り、為次作の太刀(号狐ヶ崎)のように茎(なかご)にも反りの付くものがある[8]。元から切先へ向かうにつれて反りは浅く、幅は細くなり、切先は小切先となる。地鉄(じがね)は備前物よりも肌立ち、沸(にえ)が目立ち、澄肌(墨肌とも)と呼ばれるこの一派独特の肌が見どころとなっている[4]。澄肌とは青く澄んだ地鉄のなかに黒く色の変わって見える地斑(じふ)が見えるものを指す。古伝書には「地色底黒にして霜ふりたる処々に澄膚あり」(秘伝抄)、「青き地に鉄色変りて所々黒目に見ゆる」(本阿弥光甫秘伝書)などと表現されている[9]。刃文は直刃(すぐは)調や小乱れを主として小丁子を交えた、こずみがちの刃文となり、帽子は小丸に返るものが多い。茎の鑢目(やすりめ)を大筋違(おおすじかい)とするのもこの派の特色である。銘を切る位置にも特色があり、太刀であっても刀銘(裏銘)、すなわち、腰に佩いた際に体に接する面に銘を切る例が多い[10]。刀工名は、守次、貞次、恒次のように、「次」字を通字とする。伝承によれば、後鳥羽院は月別に山城、備前、備中の各国から鍛冶を召して院内で鍛刀させたというが(いわゆる後鳥羽院番鍛冶)、『観智院本銘尽』によると、備中国からは貞次、恒次、次家が番鍛冶として召されたという。古青江の代表工には既述の守次、貞次、恒次、次家のほか、為次、康次、包次、助次、俊次、次忠、末次らがいる[11]

一方の妹尾鍛冶は、則高を祖とするというが、現存刀は少ない。作風は備前物に似るが、同時期の備前物よりは地味である[12][6]。妹尾鍛冶とされる者に則重のほか正恒、是重、安家らがいる[13]。正恒は、同時代(平安末期?鎌倉初期)の古備前派にも同名の刀工が存在する。備中正恒は鑢目(やすりめ)を大筋違とする点が古備前正恒と異なるが、2名の正恒は作風、銘字ともに類似しており、両者には何らかの関連が想定される[14]

中青江は鎌倉時代末期から南北朝初期頃の青江鍛冶を指す。古青江には銘に年号を切ったものを見ないが、中青江の時代から年号入りの銘がみられる。このうち最古の年号は正和(1313 - 1316年)である。また、銘に居住地や官名を切るものもあらわれ、「備中国住右衛門尉平吉次作」「備州万寿住右衛門尉吉次作」などと銘した太刀が現存する。作風は前代に引き続き、地鉄には澄肌がみられ、刃文は直刃調を主とするが、前代にはみられなかった丁子を交えた乱刃の作もある。代表工に助次、吉次、直次、恒次、貞次らがいる。恒次、貞次などは古青江にも同名の刀工がいる[9]。青江では異なる時代に同名の刀工が複数存在する傾向があり、たとえば恒次という銘を切る刀工は銘鑑には平安時代以降8名が記載されている[15]

末青江は延文年間(1356 - 1360年)を中心とした南北朝時代の青江鍛冶を指す。太刀は、この時期の日本刀の特色を反映した、刃長3尺(約90センチ)を超える大太刀があらわれる。これらの大太刀は、幅広く、反り浅く、切先が延びて大切先となる、この時代特有の造り込みを示す。この時代には短刀の作もみられるが、やはり時代の特色を反映して、寸延び(刃長1尺を超える)で幅広く、やや反りの付いたものが多い。刃文は伝統的な直刃調の刃文を焼くものと、逆(さか)がかった大模様の丁子乱れを焼くものがある。代表工に次吉、守次、次直、貞次らがいる[16]。刃文が「逆がかる」とは、刃文を構成する「足」が刃縁と直角にならず、斜めに傾いているものを形容する用語で、刃文が「逆がかる」のは青江物全般の特色である[6]
著名刀工及び作品
国宝

太刀 銘為次(
狐ヶ崎)(鎌倉)山口県・吉川史料館、1933年重文指定、1951年国宝指定。吉川友兼梶原景時一統を討伐した時の佩刀と伝えられる。

太刀 銘貞次 (鎌倉)東京都・個人蔵、1933年重文指定、1953年国宝指定。

太刀 銘康次 (鎌倉)岐阜県・宗教法人崇教真光、1931年重文指定、1955年国宝指定。足利義昭島津義久に送ったものと伝えられる[17]

太刀 銘正恒 (鎌倉)神奈川県・鶴岡八幡宮、1928年重文指定、1952年国宝指定。八代将軍吉宗奉納。

太刀 銘守利 (鎌倉)大阪府・個人蔵、1934年重文指定、1959年国宝指定。

※同時代に古備前派にも正恒という刀工がいる。
重要文化財
古青江

太刀 銘守次 (鎌倉)所在不明、1931年指定

刀 金象嵌銘貞次(名物小青江) (鎌倉)大阪府・個人蔵、1952年指定。「
享保名物帳」に所載。加賀前田家に伝来の2振の青江のひとつで、もう片方の「大青江」に比べ小ぶり。

刀 金象嵌銘貞次磨上之/本阿(花押)(名物大青江) (鎌倉)神奈川県・個人蔵、1957年指定。「享保名物帳」に所載。加賀前田家に伝来の2振の青江のひとつで、もう片方の「小青江」に比べ大ぶり。

太刀 銘貞次(鎌倉)東京国立博物館、1959年指定

太刀 銘恒次 (鎌倉)京都府・北野天満宮、1909年指定

太刀 銘恒次(数珠丸) (鎌倉)兵庫県・ 本興寺、1922年指定。天下五剣の一つ。日蓮が所持していたとされる。「享保名物帳」に所載。

太刀 銘恒次 (鎌倉)茨城県・土浦市立博物館、1937年指定

太刀 銘康次(鎌倉)東京国立博物館、1931年指定

太刀 銘包次 (鎌倉)厳島神社、1914年指定

太刀 銘包次 (鎌倉)愛知県・個人蔵、1955年指定

太刀 銘包次 (鎌倉)京都国立博物館、1956年指定

太刀 銘包次 (鎌倉)兵庫県・公益財団法人黒川古文化研究所、1978年指定

太刀 銘正恒 (鎌倉)和歌山県・熊野速玉大社、1913年指定

太刀 銘正恒 (鎌倉)愛知県・滝山東照宮、1914年指定

太刀 銘正恒 (鎌倉)香川県・白鳥神社、1922年指定

太刀 銘正恒 (鎌倉)東京都・個人蔵、1935年指定
太刀 古青江正恒 銘「正恒」、 13世紀、重要文化財 東京国立博物館蔵

太刀 銘正恒 (鎌倉)東京国立博物館、1941年指定

太刀 銘正恒(青江) (鎌倉)岡山県・林原美術館、1959年指定

太刀 銘正恒(備中) (鎌倉)大阪府・個人蔵、1961年指定

黒漆小太刀 中身銘有次 (鎌倉)和歌山県・滝尻王子宮十郷神社、1972年指定

太刀 銘次忠 (鎌倉)富山県・秋水美術館、1953年指定

太刀 銘守利 (鎌倉)大阪府・法人蔵、1960年指定

刀 無銘伝守利 (鎌倉)愛知県・個人蔵、1922年指定


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