青江三奈
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青江 三奈
『映画情報』1967年1月号より
基本情報
出生名井原(鈴木) 静子
生誕 (1941-05-07) 1941年5月7日
出身地 日本 東京都江東区
死没 (2000-07-02) 2000年7月2日(59歳没)
日本 東京都港区
北里研究所病院[1]
学歴東京成徳高等学校卒業
ジャンル演歌歌謡曲ジャズ
職業歌手
担当楽器歌
活動期間1966年 - 1999年
レーベルJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント

青江 三奈(あおえ みな、1941年昭和16年〉5月7日 - 2000年平成12年〉7月2日)は、日本歌手演歌歌謡曲など)。本名は井原(鈴木) 静子(いはら しずこ)。芸能活動におけるプロフィールでは、生年月日を1945年7月7日としていた[2]。血液型はA型。
略歴

東京都江東区南砂出身[3]。1947年区立南砂第一小学校に入学、1953年区立南砂第三中学校に入学を経て、1956年に東京成徳高等学校に進学[3]。1959年に高校を卒業した後、西武百貨店勤務を経てクラブ歌手となり、「銀巴里」などで歌い始める[3]

「青江三奈」の芸名は、作詞家・川内康範が『週刊新潮』で連載した小説「恍惚」のヒロインの歌手の名前に由来する。

1966年に『恍惚のブルース』でメジャーデビューし、80万枚[3]を売り上げるヒットとなる。特徴的なハスキーな低い声で歌うブルース演歌が評判となった[3]

1968年に冒頭部分の「色っぽい吐息」が有名な『伊勢佐木町ブルース』が100万枚、『長崎ブルース』が120万枚をそれぞれ売り上げて[3]いずれもミリオンセラーを記録。「伊勢佐木町ブルース」で第10回日本レコード大賞歌唱賞と第1回日本有線大賞スター賞を受賞した[3]

1969年に『池袋の夜』が150万枚[3]を売り上げて自身最大のヒット曲となり、史上初めて2年連続で第11回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。同年の『国際線待合室』も75万枚[3]を売り上げた。1969年度のレコード年間売上金額は青江が全歌手の中で1位、翌1970年度は4位だった。

この頃より、青江と同じくハスキーボイスでビクターレコードから同期デビューの男性演歌歌手・森進一と並んで“ため息路線”と呼ばれた[3]。また1968年に松竹映画の『いれずみ無残』に出演したのを皮切りに、その後1971年までの間に日活の「女の警察シリーズ」や東映の「夜の歌謡シリーズ」など10本以上の映画に脇役として出演した[2]
その後の活躍

1970年代に入るとヒット曲は途絶えるものの、その後1982年発表のシングル『横浜みれん坂』では、第1回日本作曲大賞協会賞を受賞。1984年には初のブラジル公演を開催する[3]。デビュー25周年となった1990年に「レディ・ブルース」で第32回日本レコード大賞・優秀アルバム賞を受賞するなど、テレビ番組やコンサートなどに精力的に出演し続けていた。

NHK紅白歌合戦」は1966年の第17回に初出場したのちに、1968年の第19回から1983年第34回まで16年連続で出場した。1990年第41回は同年12月に亡くなった「恍惚のブルース」の作曲家浜口庫之助を偲び、7年ぶりに通算18回目で紅白出場した。

1990年に青江三奈名義での歌手デビュー25周年を記念して、初のリサイタルを開催する[3]1991年ものまねタレント清水アキラと二人で「ラーメンブルース」のデュエット曲を発表する。1993年に初のジャズアルバム「THE SHADOW OF LOVE」も発表し、ニューヨークでもライブを開催する[3]1995年に歌手生活30周年リサイタルをNHKホールで開催するなど、1999年1月までコンスタントに歌手活動を行った。
闘病・死去

1998年の秋に背中の激痛で受診して膵臓癌と診断されたが[3]、病を隠して仕事をキャンセルせずに歌い続けた。1999年1月23日渋谷公会堂で催した「青江三奈・魅惑のコンサート」を最後に歌手活動を停止し、1月下旬に都内の病院へ入院し、膵炎による加療と発表された。最後のコンサート当日に痛みを耐えながら熱唱した公演の写真が、追悼の特集の際に公開されることがある。

1999年2月5日に9時間を要した手術が成功し、約3か月の入院生活を経て同年4月24日に退院した。退院後は抗癌剤の点滴のために通院しながら美容院へ通うなど歌手活動の復帰を図るが、2000年2月に体調が悪化して再入院して膵臓癌の転移が発覚する。その後は入退院を繰り返したが、2000年7月2日午後11時40分頃に東京都港区北里研究所病院で膵臓癌により59歳で死去[1]葬儀告別式で親友の水前寺清子[注釈 1]が歌手仲間の代表として弔辞を読んだ。

死去から約1年後の2001年7月1日に「伊勢佐木町ブルース」の歌碑が神奈川県横浜市中区イセザキモールに建立された[注釈 2]。歌碑は「楽器の王様」と言われるグランドピアノをモチーフとし、青江三奈自身が歌唱している姿のレリーフが刻まれている。台座部分にはスピーカーが内蔵してあり、スイッチを押すと同曲が約1分間流れる。歌碑に刻まれた楽譜は作曲した鈴木庸一が歌碑の為に書いたものであり、題名と青江三奈の名前は花礼二が書いたものである。歌碑の裏面には、二十世紀に親しまれた横浜に因んだ歌の中からアンケートで選ばれた50曲の曲名も刻まれている。
人物
歌手デビューまで

実家は洋品店を営み、5人兄弟[注釈 3]の末っ子として育つ[3]。子供の頃から下町育ちらしい気さくでさっぱりした性格だった。兄たちが皆音楽好きだったことから青江も自然と歌が好きになり、小学生時代に地元の合唱団に入った。NHKの番組内で小学生時代の写真を披露している。中学生の頃の修学旅行では門限を守らず、教師に呼び出されたが、ネグリジェで色仕掛けするイタズラで、計画通りにあえて教師から叩き出されて指導を即座に終わらせるなど活発な女学生であった。高校生の頃に将来歌手になる夢を持ち、在学中にミュージック・スクールで歌のレッスンを受けた[2]。しかしデビューのきっかけがつかめず、高校卒業後は西武百貨店池袋本店の化粧品売り場で働き始めた[3]

その後女友達に誘われて行った湘南での海水浴で偶然作曲家・花礼二と出会い[注釈 4]、これが転機となった。花が作曲家だと知った青江は、彼からジャズ、シャンソン、カンツォーネ、演歌など様々な歌を教わり始める。その後花が青江を「銀巴里」に売り込んだおかげでオーディションに合格し、クラブ歌手として銀巴里の他銀座や横浜などの店で歌うようになる[3]

その後青江のステージを見たビクターレコードのディレクターからスカウトされ[3]、1966年にデビュー。先述の通りデビュー曲「恍惚のブルース」はヒットしたが、その後1年半もの間ヒットが出ず地道な歌手活動が続く。この頃は、新宿区四谷の家賃3万円のアパートで暮らしていた[3]
「伊勢佐木町ブルース」

「伊勢佐木町ブルース」のイントロの青江による『色っぽい吐息』は、元々楽譜にはなかった。レコーディング時にスタッフから「伴奏のみのイントロがちょっと寂しい」との意見が出た。そこでディレクターが試しに青江にテキトーに声を出してもらった所、別のスタッフから「もっと色っぽくしてみよう」との案が出て『色っぽい吐息』を追加することが決まった[3]

同曲の発売後、世間では曲の冒頭の「色っぽい吐息」やサビの「ドゥドゥビドゥビドゥビ…」のフレーズが話題となった[3]。しかし当時は「“吐息”は子供向きではない」「お色気だ」の意見もあり、『第19回NHK紅白歌合戦』に2年ぶり2回目の出場時は、カズーの音と差し替えて[4]白組司会の坂本九は「ダチョウのため息」と紹介した。1982年『第33回NHK紅白歌合戦』で2回目に歌唱した際は「吐息」は差し替えられなかった。

その後1970年(昭和45年)から1979年(昭和54年)まで、マスプロ電工のマスプロアンテナのテレビCMへ出演した。その中で同曲の替え歌として「あなた知ってる? マスプロアンテナ? 見えすぎちゃって 困ァるのォ?」と唄った。サンバイザーにミニスカート姿でゴルフのグリーンでパッティングする際にミニスカートから内側がうかがえる光景が強調され、「お色気コマーシャル」として強い印象を残した。ただし、その後の青江が出演する同社CMは「お色気コマーシャル」では無くなった。
長者番付

「伊勢佐木町ブルース」の発売後からの数年間はテレビ出演のほか、1時間のステージを日に2回、時には地方を回ってひと月に28日間の公演をすることもあった。結構なハードスケジュールだったが、歌うことが大好きだったため一切泣き言を言わなかった[3]。この頃のステージ1回の青江の取り分は、60?70万円(大卒の初任給が約4万円の時代)だったとされる[3]

このことから、1970年代前半は長者番付(歌手部門)の常連となった[3]。所得金額は、1970年度は5位で4732万円[注釈 5]、1971年度は6位で5164万円[注釈 6]、1972年度は5位で5097万円、1973年度は4位で5202万円、1974年度は6位で4882万円だった[3]
花礼二との事実婚

作曲家の花礼二は青江と大井町で同居しながら歌唱指導した間柄で多くの曲を提供したが、2人は私生活においてもパートナーだった。青江は10歳ほど年上の花を“でんさん”と呼び、デビュー前の1965年頃から恋愛関係となった[3]。ただし当時の芸能界では、「女性タレントに恋人がいると芸能人として売れない」とされていたため、二人は籍を入れないままひっそりと交際を続けた[3]

しかし1981年に青江の方から突然別れを切り出し[注釈 7]、16年間に及んだ事実婚にピリオドが打たれた[注釈 8]。花と別れた後それまで以上に歌に打ち込み、先述の通り歌手として新しいことに挑戦したり海外公演なども行った。1990年頃から時々雑誌の対談などで「今考えると、“別れ”っていいんじゃないかと思えるの。人生観とか季節感とか全てにおいて深みが増した気がする。別れを経験していないとこの味わいがないんじゃないかしら」と語っていたという[3]

しかし2000年2月に膵臓癌の転移が判明した後、青江が花に直接連絡して「戻ってきて」と頼んだことで再会[3]。19年ぶりによりを戻した2人は、青江が死去する約2か月前に病床で婚姻届に署名して結婚した[注釈 9]。青江の死後は、青江の兄弟と花の間で相続について訴訟するなどして耳目を集めた。

その後、花は青江の一周忌を終えた頃に熱海市の借家に移住。生前に青江が暮らしていた目黒区の自宅は売却した。彼の自宅には青江がかつて着用したステージ衣装が数十着ほど運び込まれ、大切に保管されており、花の知人の証言では「(花は)いずれ、青江の記念館をつくって彼女の遺品を展示したい」と語っていたという。花は2021年の夏に89歳で逝去した。青江との死別後は一人暮らしで、葬儀は花の親戚が営んだ[5]
その他

1978年に
目黒区柿の木坂にプール付きの豪邸を構え、最晩年までここで暮らした。1981年に花と別れた後から2000年に復縁するまでの間は、この家でお手伝いさんと二人暮らしだった[3]

「伊勢佐木町ブルース」がヒットしたことで町の名が全国区になり、その後青江は町の名誉会員になった[3]

休日には、よく麻雀やゴルフをしていた。生前本人はゴルフの腕前について「調子が良いとハーフで40台前半」と言っていた[3]

旅好きで国内旅行の時はゴルフと温泉を楽しむのが定番だった。また正月にはハワイ、夏休みにはパリを主に旅行していた[3]

北海道内で主に活動する歌手・明江三奈のことを、「私の妹分、“北海道の青江三奈”として頑張って」と応援していた[3]

ディスコグラフィ


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