この項目では、新制の公立高等学校について説明しています。旧制の官立高等学校については「弘前高等学校 (旧制)」をご覧ください。
青森県立弘前高等学校(あおもりけんりつ ひろさきこうとうがっこう、Aomori Prefectural Hirosaki High School)は、青森県弘前市新寺町に所在する県立高等学校。略称「弘高(ひろこう)」
「ひろこう」は校歌にも歌われ、応援などにも使われる伝統的な略称である。しかし青森県立弘前工業高等学校の略称も「弘工(ひろこう)」と同じ音であるため、区別のために「ひろたか」「たか」「たが」と呼ばれる場合もあるが、俗称であり一般的に認められているものではない。
概要
歴史
1884年創立の「青森県中学校」(旧制中学校)を前身とする。当初は青森新町(現・青森市)に開校。1889年弘前市元寺町に移転、1893年弘前市新寺町の現在地に移転。5回の改称を経て1948年の学制改革により新制高等学校「青森県立弘前高等学校」に昇格し現在に至る。2014年に創立130周年を迎える。
設置課程・学科・定員
全日制課程 普通科 1学年定員240名(6学級)かつては通信制課程も有していたが2002年03月31日に廃止された。
校訓
存在しない[1]が、実質的な校訓のような言葉として「誰人天下賢」が管理棟や第一体育館などに飾られてある。これは、弘前出身のジャーナリスト、陸羯南の五行絶句『名山出名土 此語久相伝 試間巌城下 誰人天下賢』の最後の部分から取ったもの。
教育目標
人間像 - 持って生まれたものを深くさぐって強く引き出す人
努力目標 - 「自学自習」・「規律ある自由」・「体力の増進」
重点目標 - 「授業の充実」・「高い理想と努力の継続」・「学習と部活動等の両立」・「逞しい心身の育成」
校章
官立弘高の大鵬の意匠を継承し、1948年の新制高校発足時に制定。1953年に現在のデザインに改定された。八稜鏡[2]と大鵬の絵を組み合わせたものを背景にして、校名の「弘高」の文字(縦書き)を置いている。
校歌
作詞は相馬俊介、作曲は木村繁による。歌詞は2番まであり、両番に校名の「弘高」が登場する。
同窓会
「鏡ヶ丘同窓会」(鏡ヶ丘の読みは「かがみがおか」)と称している。
沿革
旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代
1884年
8月20日 - 東津軽郡青森新町(現・青森市)に「青森県中学校」(旧制中学校)が創立。
10月06日 - 開校式を挙行。初代校長に一町田大江が就任。
1886年09月 - 中学校令の施行により、「青森県尋常中学校」と改称。
入学資格を中学予備科を中学校予備の小学校等を卒業した12歳以上の男子、修業年限を5年(現在の中1?高2)とする。
1889年05月01日 - 弘前市元寺町に移転[注釈 2]。
1892年06月20日 - 火災により校舎が全焼。津軽産業倶楽部を借用し仮校舎として移転。
1893年
9月28日 - 八戸分校を設置。
12月12日 - 弘前市新寺町に新校舎が完成し移転を完了。
1895年
3月16日 - 尋常中学校の新設(八戸分校が第二尋常中学校として独立)により、「青森県第一尋常中学校」と改称。
4月01日 - 八戸分校が分離し、青森県第二尋常中学校として独立。
1899年04月01日 - 中学校令の改正により、「青森県第一中学校」と改称(「尋常」を除く)。
1902年06月01日 - 「青森県立第一中学校」と改称(県の後に「立」が加えられる)。
1908年09月23日 - 皇太子が来校。
1903年04月01日 - 「青森県立弘前中学校」と改称。青森県立第四中学校を統合し、木造分校とする。
1905年03月31日 - 木造分校を廃止。
1906年04月 - 定員を700名に増員。
1910年04月 - 定員を800名に増員。
1915年04月 - 定員を1,000名に増員。
1933年10月06日 - 創立50周年を記念し、財団法人弘前中学校奨学会(現・弘前高等学校奨学会)を創立。
1940年04月 - 定員を1,250名に増員。
1943年04月01日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年となる。
1949年- 勤労動員が開始。
1945年
3月 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年施行の前倒しが行われ、5年生と4年生の合同卒業式を挙行。