あおやぎ のぶお
青柳 信雄
『サンケイグラフ』1955年4月10日号より
生年月日 (1903-03-27) 1903年3月27日
没年月日 (1976-05-17) 1976年5月17日(73歳没)
出生地 大日本帝国・神奈川県横浜市
死没地 日本・東京都新宿区津久戸町
国籍 大日本帝国 → 日本
職業映画監督、映画プロデューサー
配偶者青柳 いね
著名な家族八代目坂東三津五郎(弟)
青柳哲郎
青柳 信雄(あおやぎ のぶお、1903年3月27日 - 1976年5月17日)は、日本の映画監督、プロデューサー。
経歴淡交社『淡交』第8巻11月号(1954)より
1903年(明治36年)横浜市生まれ。1915年(大正4年)に神奈川師範附属小学校を卒業。同級生に江川宇礼雄、国木田虎雄、岡田時彦(高橋英一)らがいた[1]。旧制日本大学中学校(現在の日本大学第一中学校・日本大学第一高等学校)を卒業。明治大学卒業後、心座、美術座、前進座、芸術座、猿之助一座、東宝劇団といった新劇の舞台演出を手がけていた。
1933年(昭和8年)には、演出を手掛けた『源氏物語』が風教を害するという理由で上演直前に禁止命令を受ける憂き目に遭った[2]。1937年(昭和12年)、34歳の時に東宝へ制作者として入社。1940年(昭和15年)に演出部へ移り、第1回作品として当時人気のあった浪曲師広沢虎造主演の『虎造の荒神山』を撮る。戦後、東宝争議により新東宝が設立されるとともに制作者として移り、プロデューサーとして活躍する。1952年(昭和27年)に監督復帰、1954年(昭和29年)に再び東宝でメガホンを取るようになる。復帰作品は『落語長屋は花ざかり』で以降、『落語シリーズ』を手がける。シリーズものとしては他に江利チエミ主演の『サザエさん』がある。
早撮り監督といわれたが、それもプロデューサーで苦労した経験から会社の無理な要求にも応え、無理なスケジュールや予算でこなした結果といわれる。映画製作の能率向上、費用削減にも努め、映画音楽のダビング前のテープ録音の先鞭をつけた。こよなく焼き物を愛し、ロケ先で掘り出し物を見つけると後輩の黒澤明監督を電話で呼び出して二人で鑑賞したという[3]。
1976年5月17日午前9時8分に心不全のため、東京厚生年金病院で死去(享年73歳)[4]。 息子はプロデューサーの青柳哲郎
家族
主な作品
監督作品『四つの結婚』(1944年)『制服の乙女たち』(1955年)
かぐや姫(1935年11月21日、J.O.スタジオ)
虎造の荒神山(1940年7月10日、東宝)
娘時代(1940年12月11日、東宝)
エノケンの金太売り出す(1941年3月19日、東宝)