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「青林書院」とは異なります。
青林堂
正式名称株式会社青林堂
前身大和書店
足立文庫
日本漫画社
三洋社
現況事業継続中
法人番号5011001012276
株式会社青林堂(せいりんどう)は、東京都渋谷区に本社を置く[1]1962年創業の老舗出版社である[2]。
漫画専門出版社の草分け的存在で「ガロ系」と称される一群の漫画作家を輩出し、日本漫画文化史上に一時代を築いたと言われる[2]。 1959年、貸本漫画出版社の「日本漫画社」を経営していた長井勝一の友人である小出英男、夜久勉の出資により、長井を業務責任者とし、青林堂の前身となる「三洋社」が設立される[3]。青林堂の成立時期に関しては、元・青林堂編集者の高野慎三によれば、定かではなく、1957年発行の貸本業界の機関紙『全国貸本新聞
歴史
前史
三洋社では白土三平の『忍者武芸帳』や水木しげるの『鬼太郎夜話』などの貸本漫画を世に送り出しヒットさせた。特に白土の『忍者武芸帳』は1962年まで全17巻を刊行する。これは当時としても破格の大長編であり、貸本漫画最大のヒットとして金字塔を打ち立てる[5]。
白土の『忍者武芸帳』は、それまでの荒唐無稽な忍者漫画とは異なり、作中で使用される忍術にも科学的考証による説明が与えられ、リアリティが醸し出されていた。手塚治虫によると、白土が登場してから子供漫画には重厚なドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求されるようになったという[6]。
『忍者武芸帳』で展開される階級闘争は、労働者階級の読者からインテリ層まで絶大な支持を受け、全共闘世代のバイブル的存在となる。また『忍者武芸帳』は安保闘争と関連づけて論じられることも多かったが、長井や白土本人は「読者が安保闘争に関連づけて読むのは勝手である」としつつも「あれと安保は余り関係がない」と語るなど、特に時流を意識していた訳でもなかったという[7]。 三洋社の解散後、長井勝一は1962年に神田神保町で新出版社「青林堂」を創業する[注 1]。当初は三洋社時代と同様に貸本漫画を中心に出版していたが、1964年7月24日より白土三平と共同で漫画雑誌『月刊漫画ガロ』を創刊する。当時は劇画ブーム前夜であり、『ガロ』は全共闘時代の大学生に強く支持され一世を風靡した[2]。後に7月24日は「劇画の日」と呼ばれるようになる[8]。 元々『ガロ』は題材・内容と、そのスケールから連載する場所が無かった白土の漫画『カムイ伝』の連載の場を設けることが創刊の最大の目的であった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。また青林堂では商業的なメジャー系出版社の漫画事業と対極のスタンスで、掲載作品の作品性を重視する編集方針を取り、白土三平や水木しげるといった有名作家から、つげ義春、花輪和一、安部慎一、鈴木翁二、古川益三、蛭子能収、根本敬、山田花子、ねこぢる、山野一、みうらじゅん、内田春菊、林静一、丸尾末広、近藤ようこ、杉浦日向子、やまだ紫、矢口高雄、ひさうちみちお、久住昌之、古屋兎丸、福満しげゆきといった「ガロ系」と称される一群の漫画作家に表現の場を与え輩出し、日本漫画文化史上に一時代を築いた[2]。
黎明期