この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "青木雄二"
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2010年11月)
青木 雄二
生誕1945年6月9日
日本・岡山県久米郡弓削町
(現・久米南町)
死没 (2003-09-05) 2003年9月5日(58歳没)
国籍 日本
職業漫画家・随筆家
活動期間1970年 - 2003年
ジャンル青年漫画
代表作『ナニワ金融道』
受賞第16回講談社漫画賞
第2回手塚治虫文化賞優秀賞
(以上『ナニワ金融道』)
テンプレートを表示
青木 雄二(あおき ゆうじ、1945年6月9日[1][要検証 – ノート] - 2003年9月5日[2])は、日本の漫画家・エッセイスト。京都府加佐郡大江町(現・福知山市)生まれ。岡山県久米郡弓削町(現・久米南町)出身[3]。 1964年、岡山県立津山工業高等学校土木科を卒業[2]。在学中は野球部に所属し、ポジションはキャッチャーだった[4]。卒業後は兵庫県神戸市の山陽電気鉄道に入社[3]。 1969年、当時の山陽電気鉄道は学歴を重視する方針だったことに不満を感じ[4]、入社から5年で同社を退社。地元岡山県に戻り久米南町役場の職員になるが、結局田舎での生活に嫌気がさし[4]、3ヶ月で退職[3]。大阪に出てビア・ホールでアルバイトを始める。その後はパチンコ店の店員やキャバレーのボーイ等の水商売を中心に約30種類以上の職を転々とした[2]。この経験が漫画を描く上で大いに参考になったという。本人によると一番楽だった仕事は公務員で、肉体的に一番キツかったのがパチンコ屋、精神的に一番キツかったのが漫画家だったとのことである[5]。当時のパチンコ店内は大音量のBGMが流れ、タバコを吸う客が多く店内の空気が非常に悪かったため、パチンコ店の店員は大変だったと語っている。 1995年、19歳年下の女性と50歳で結婚。妻とは行きつけの喫茶店で知り合ったと語っていたが、青木の死後に妻が自著『夫・青木雄二―ナニワの異端漫画家の真実』で北新地のホステスと客として出会ったと明らかにした。55歳で男児をもうけている。青木自身は50回以上の見合いを経験した[4][6]。 1990年に連載を始めた『ナニワ金融道』の売上が1997年3月に1000万部を突破し、「一生暮らせるだけの金は稼いだ、残りの人生は遊んで暮らす」と宣言。漫画執筆活動を引退し、余生を自由気ままに過ごす予定だったが、活字の執筆や講演依頼が多く、引退後も忙しかった。その模様をTBS・JNN報道特集に「ナニワ金融道 青木雄二の素顔」として密着取材され、青木の数少ない映像記録となった。 2003年9月5日、肺癌のため死去。58歳没。 1970年に「屋台」がビッグコミック新人賞佳作に入選[3]。佳作賞金として7万円を手にするも、連載等の声が全くかからなかったため、佳作に入選した「屋台」を持ってデザイン会社に売り込みをして就職し3年間勤めた[4]。 1975年に独立してデザイン会社「青木デザイン」を起業する[3]。起業当初は一人で全ての業務を行っていたが、事業拡大のために従業員を雇うようになる。経営は順調に思えたが、数々の取引先から支払いを「もう少し待ってくれ」と言われ続け、資金繰りが苦しくなる。そんな状況にも関わらず、青木の「他者に金銭的迷惑をかけない」という信条により、従業員の給料や自社からの支払いは一度も遅れる事なくしっかりとこなしていた。次第に状況が悪化して借金を背負い[4]、1983年倒産。ここでの経験がその後の作品を描く上で大いに参考になったという。この期間も漫画を描き続け、実業之日本社を中心に投稿を続けるが、「現象形態と本質」が1987年頃に週刊漫画サンデーに掲載されたものの、ほとんど掲載されるには至らなかった[4][7]。 1989年、「50億円の約束手形」でアフタヌーン四季賞佳作に入選、1990年に「彼岸と此岸の間で」で準入選を受賞し、同年に代表作の「ナニワ金融道」(週刊モーニング)で漫画家として45歳でデビューした、遅咲きの漫画家であった[3]。 自らマルクス主義者を標榜し、現代社会への批判が常に著作の根底にあった。そのため右翼団体によって攻撃の対象とされていた。日本共産党の演説会に弁士として招かれたことがあり、講演会や赤旗紙上に晩年までたびたび出ていた(が、あまりに教条的なマルクス主義論を壇上でぶったため、二度とお呼びが掛からなかったという逸話もある[8])。
来歴
執筆活動