凡例青木重直
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕享禄2年(1529年)[1]
または永正13年(1516年)[2]
死没慶長18年11月21日(1614年1月1日)[1]
または慶長8年(1603年)
改名重直、浄憲(法名)
別名通称:加賀右衛門/加賀右衛門尉、刑部卿法印
墓所大阪府池田市の佛日寺[3]
官位刑部卿法印
主君土岐頼芸→斎藤道三(義龍)→織田信長(丹羽長秀)→豊臣秀吉
氏族青木氏
父母父:青木重藤[2](青木某[1])
子一重、女(小寺則頼
青木 重直(あおき しげなお)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。摂津国麻田藩主家の祖。 青木氏は『寛政譜』では武蔵七党の一つ丹党の末で美濃国に流されたと称する丹党流に作るが[1]、『青木系図』では藤原北家利仁流に作る[2]。いずれにしろ、美濃国の出身。 『信長記』の一部によれば、永禄2年(1559年)に織田信長が初めて上洛した際に斎藤義龍の命令で信長の命を狙った刺客の一人だったという[4]。 美濃斎藤氏滅亡後は織田氏に仕え[1]、家臣の丹羽長秀の与力。山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに参加した[5]。後に豊臣秀吉の家臣となって、御伽衆に列した。 文禄2年(1593年)10月17日、摂津国豊島郡のうちで1,400石を与えられ[1][6]、文禄4年(1595年)9月21日、菟原郡で360石を加増された[1][6]。この後に剃髪して浄憲と称し[2]、刑部卿法印に叙された[1]。 慶長18年11月21日(1614年元旦)[1]または慶長8年(1603年)[2]、大坂で死去した。享年86[1]または88[2]。
略歴
次男:青木重経(?-1573) - 渥美重経。徳川家康の家臣、三方ヶ原の戦いで討死
三男:青木直継(?-1578) - 羽柴秀吉の家臣、天正6年の播磨攻めで戦死
四男:青木可直(1561-1622) - 麻田藩2代藩主重兼の実父
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i j k 堀田 1923, p. 522.
^ a b c d e f g “『青木系図』”. 東京大学史料編纂所. 2022年4月10日閲覧。
^ 北摂麻田藩主青木氏の菩提寺。
^ ただし『信長記』の天理本に限る。信長公記の他の版では、小池吉内、平美作、近松頼母、宮川八右衛門、野木次左衛門、他とあり、青木の名前は書かれていない。
^ 『丹羽歴代年譜付録』
^ a b 高柳 & 松平 1981, p. 3.
参考文献
高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、3頁。
堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 丹治氏青木」『寛政重脩諸家譜 第4輯』國民圖書、1923年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713/270 国立国会図書館デジタルコレクション。