青木真也
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青木 真也
基本情報
本名青木 真也
通称バカサバイバー
跳関十段
国籍 日本
生年月日 (1983-05-09) 1983年5月9日(41歳)
出身地静岡県静岡市
所属フリー
→RJJ
→Team ROKEN
パラエストラ東京/Evolve MMA
身長180cm
体重70kg
リーチ183cm
階級ウェルター級
ライト級
バックボーン柔道 (参段)
ブラジリアン柔術 (黒帯)
テーマ曲バカサバイバー
ウルフルズ
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青木 真也(あおき しんや、1983年5月9日 - )は、日本男性総合格闘家プロレスラー柔術家静岡県静岡市出身。パラエストラ東京/Evolve MMA所属。第8代修斗世界ウェルター級王者[1]。第2代、第6代ONE世界ライト級王者。第2代DREAMライト級王者。

寝技や極めの技術に長け、跳関十段(とびかんじゅうだん)、バカサバイバーの異名を持つ。
来歴
幼少期

小さな工場を経営していた父の元に生まれる[2]。幼少期は授業中も動き回ったり落ち着きのない子供であり、力も強く他の子との喧嘩も絶えなかった[3]。それにより何度も家族が学校に呼び出されることがあったが、父は「子供ひとり言うこと聞かせられないあんたの器が小さいんだろ」と学校に啖呵を切り、「もう先生の言うことを聞かなくていいから」と青木にアドバイスした[4]。青木は小学校高学年からはしっかりと授業を受けられるようになったが、この頃から孤立がちであった[5]
柔道との出会いから中学卒業まで

小学3年生から柔道を始めたが、学校では問題児扱いされて孤立していた青木にとって柔道に集中している時間は救いであり、青木は柔道には真剣に取り組んだ[6]。ところが東海大第一中学時代にはレベルの差を痛感、2年生の頃には補欠に甘んじ、柔道部の顧問からは期待していないと言われた[7]。才能も体格もない自分が強くなるには練習に打ち込むしかないと考えた青木は、並の部員の2倍練習し、部活外でクラブチームに参加して様々な指導者のエッセンスを自分に加えた。また格闘技雑誌を読み漁り、柔道では通常使わないような飛び付き腕十字などの技術も貪欲に取り入れる等、努力を重ねてレギュラーの座を得た[8][9][10]。青木が力を付けて試合に勝つようになると顧問は手のひらを返したように期待を寄せるようになり、3年生の高校進学を控えた時期には「お前は日本代表になるかもしれない」と声を掛けた。そのまま自然な流れで高等部に内部進学することもできたが、青木はかつて自身を否定した顧問に憤りを覚え、ライバル関係にある静岡学園高校に進学した[11]
高校時代

いきなり相手に飛び付いて決め技を狙う柔道スタイルに対する批判は高校でも止まず、先生から多くの生徒に見られる中で自分の技をこき下ろされたこともあり、青木の柔道生活は「背負い投げ」「内股」「大外刈り」を得意技としなければならないとする柔道界の暗黙の了解との戦いであった[12]。しかし高校の柔道部における柔道生活自体は顧問の先生に好きなようにやらせてもらえる快適なものであった。顧問は、バンカラ気質の器の大きい人物で、全国大会の出場権がかかった県予選で勝利した時に青木は柔道の不文律を破って派手なガッツポーズを行い、他校の指導者からの抗議を受けるが、顧問は「すまん。見ていなかった」と知らんぷりして青木をかばってくれた[13]
大学時代

早稲田大学人間科学部でも柔道部に在籍[14]。この当時から既にさまざまな格闘技に通じ、跳びつき腕ひしぎ十字固め腋固スピニングチョークフットチョーク[要出典]など、柔道においては特異な技の数々で勝利をものにしてきた。その結果全日本ジュニア強化選手となったが、競技柔道(講道館柔道)では投げ技による一本勝ちを重視する傾向があるため、青木のスタイルは講道館柔道の世界からは異端扱いをされ、結果青木はその格闘技観の違いから、「極」を重視した格闘技へと活躍の場を移すことを決意。総合格闘技にシフトするきっかけとなったのは中学・高校時代に桜庭和志がグレイシーハンターとして強豪外国人選手を次々と破り、一気にブレイクした過程をリアルタイムで見ていたことである[15]。大学の柔道部では反骨心を剥き出しにして、伝統を重視する指導者の意見にも耳を傾けず[16]、上下関係を前提にして油断している先輩と組み合えばタップアウトしても緩めることなく技を極め続け、倒れ込んだ相手の手のひらを踏んづけることすらあった[16]。柔道部で衝突を繰り返す青木をだれも制御できなくなり、監督から呼び出されてクビを宣告され[16]、大学3年生の内に格闘家としてのプロデビューを果たした[16]
格闘技デビュー

デビュー当初は練習場所のRJJ(Real Japan Judo)[17]やTeam ROKEN[18]を所属先としていたが、2004年10月のDEEP 16th IMPACTから中井祐樹パラエストラ東京所属となった。なお、青木は中井からブラジリアン柔術黒帯を授けられている。

2003年11月24日、club DEEP 4thで行なわれたフューチャーキングトーナメント82 kg以下級で優勝[19]

2004年10月30日、DEEP 16th IMPACTで行われたウェルター級(-76 kg)トーナメント準決勝で中尾受太郎と対戦。寝技を駆使し試合を優位に進めるも、スタンドの打ち合いで左ストレートを喰らい、KO負け。

2004年11月28日、COPA reversal 2004で弘中邦佳と柔術マッチで対戦し、跳びつき腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。フィニッシュの腕ひしぎ十字固めで弘中は右肘を脱臼した[20]
修斗時代

2005年1月29日、初参戦となった修斗でキース・ウィスニエフスキーにスタンド状態から腕ひしぎ腋固めで一本勝ち。フィニッシュの腕ひしぎ腋固めでウィスニエフスキーは左腕を骨折した[21]

2005年5月4日、修斗で岩瀬茂俊と対戦予定であったが、眼底検査で網膜裂孔と診断され、インターナショナル修斗コミッションよりライセンスが発行されず、欠場となった[22]

2005年5月28日、ADCC 2005では77 kg未満級の2回戦でマルセロ・ガッシアと対戦、バックを許し、チョークスリーパーで一本負け。翌日5月29日には無差別級の1回戦でホジャー・グレイシーと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。

2005年6月11日、プロ柔術関西「大阪夏の陣」で渡辺直由へのリベンジに成功。試合後、セコンドについていた渡辺の師である早川光由に「次はお前だ!」と対戦要求した[23]

2005年7月30日、網膜裂孔が完治し修斗よりライセンスが発行され、5月に中止となった岩瀬茂俊と対戦[24]。開始35秒右ローキックを股間に受けてしまい、反則勝ちとなった[25]

2005年8月20日、修斗で桜井"マッハ"速人と対戦し、判定負け。

2005年10月19日、カリフォルニア州で行なわれたヒクソン・グレイシー主催のブドーチャレンジ77 kg未満級トーナメントに参戦。決勝でキャメロン・アールに一本勝ちし優勝を果たした。


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