青木幹雄
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ラーメン店創業者の「青木幹夫」とは別人です。

日本政治家青木 幹雄あおき みきお
2000年、内閣官房内閣広報室より公開
生年月日 (1934-06-08) 1934年6月8日
出生地 日本 島根県簸川郡大社町(現、出雲市
没年月日 (2023-06-11) 2023年6月11日(89歳没)
死没地 日本 神奈川県川崎市
出身校早稲田大学法学部中途退学
前職衆議院議員秘書
大社町漁業協同組合組合長
島根県土地改良事業団体連合会会長
漁業協同組合JFしまね顧問
所属政党(自由民主党→)
無所属→)
自由民主党
称号従三位
旭日大綬章
親族青木一彦(長男)
内閣総理大臣臨時代理
内閣小渕第2次改造内閣
在任期間2000年4月3日 - 2000年4月5日
天皇明仁
第64-65代 内閣官房長官
第38-39代 沖縄開発庁長官
男女共同参画担当大臣
沖縄担当大臣
内閣小渕第2次改造内閣
第1次森内閣
在任期間1999年10月5日[1] - 2000年7月4日[2]
参議院議員
選挙区島根県選挙区
当選回数4回
在任期間1986年7月8日 - 2010年7月25日
第52代 島根県議会副議長
在任期間1983年5月11日 - 1984年6月18日
島根県議会議員
選挙区簸川第3選挙区
当選回数5回
在任期間1967年4月 - 1986年3月
その他の職歴
第25代 自由民主党参議院議員会長
総裁:小泉純一郎安倍晋三
2004年 - 2007年
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青木 幹雄(あおき みきお、1934年昭和9年〉6月8日 - 2023年令和5年〉6月11日)は、日本政治家。位階は従三位、勲章は旭日大綬章

竹下登衆議院議員秘書島根県議会議員(5期)、参議院議員(4期)、内閣官房長官(第6465代)、沖縄開発庁長官(第38・39代)、自由民主党参議院幹事長、自由民主党参議院議員会長を歴任した。

長男に青木一彦参議院議員がいる。
来歴・人物
出生、学生時代

1934年6月8日、島根県簸川郡大社町漁師の家に誕生する。実家は網元で、大社漁協の組合長だった[3]。漁師の息子だった青木は稲佐の浜で朝から暗くなるまで勉強もしないで真っ黒になって遊んだ[4]島根県立大社高等学校を経て早稲田大学に入学。雄弁会では幹事長になった[5]森喜朗は青木の擁立工作に奔走し、その働きが評価され渉外担当の幹事役になった[5]
竹下の秘書

学生時代に竹下登選挙を手伝った縁で、そのまま地元・島根で竹下の秘書となり、早稲田大学は中退した。1967年、島根県議会議員に当選した[4]。5期、20年近く県議兼秘書として竹下の地元「城代家老」を務めた[4]1983年5月11日、島根県議会副議長に就任した[6]
参議院議員

1986年、竹下の要請を受けて第14回参院選に立候補、当選した。竹下譲りの気配りと腰の低さをもってして、「竹下の黒子」として永田町界隈を奔走。竹下派会長の金丸信東京佐川急便事件に絡んで議員辞職したことに伴う竹下派後継会長争いで竹下系が小渕恵三を、金丸系が羽田孜を推して分裂した際、斎藤十朗らと伴に小渕支持に奔走。参院竹下派は金丸系である小沢一郎の「参院は(衆院さえ固めれば)後からついて来る」という参院軽視発言が瞬時に伝わり、参院竹下派38人中30人を小渕支持で固めた。
内閣官房長官・内閣総理大臣臨時代理内閣総理大臣小渕恵三らと(青木は左から2人目。1999年12月31日内閣総理大臣官邸で)

1998年、小渕が内閣総理大臣に選出されると、党参院幹事長に就任した。1999年の第2次改造内閣では野中広務の後任の内閣官房長官沖縄開発庁長官兼務)として初入閣した。参議院議員が内閣官房長官に就任するのは、第1次海部内閣発足後間もなくスキャンダルで辞任した山下徳夫の後任として環境庁長官から横滑りで就任した森山眞弓以来2人目で、初入閣での就任では初めて。この頃、竹下が病床につくようになり、青木が竹下に代わる政界の実力者として注目されるようになる。その後、経世会支配の象徴と言われた秀和永田町TBRビル第4階の竹下事務所を竹下・青木事務所とし、竹下が座っていた椅子に青木が座るようになった。

2000年、小渕首相が緊急入院し意識不明の状態になると、内閣総理大臣臨時代理に就任して内閣総辞職を決定し、後任の自民党党総裁・首相には森喜朗が選出された。しかし、首相臨時代理への就任から森内閣成立の過程が不透明として、「五人組」の一人として批判された。青木が首相官邸での記者会見や臨時閣議で首相臨時代理の指定を受けたと発表したことや衆参両院議長に提出した内閣総辞職通知書について官職詐称の罪や有印公文書偽造同行使罪にあたるとして民主党から告訴されたが、不起訴処分となった。

森内閣では前内閣の閣僚留任という形で内閣官房長官に留任したが、第2次森内閣発足で官房長官を退き、党参院幹事長に再度就任した。竹下・小渕ら幹部が不在となり、橋本龍太郎に代替わりした派閥を野中らと支えた。
参院のドン「ドン (参議院)」も参照

2003年党総裁選挙では現職の小泉純一郎を支持。自ら小泉の推薦人に名を連ねて、参院橋本派をまとめて同派幹部で反小泉の野中と激しく対立した。党総裁選終了後の党人事で小泉は青木に近い額賀福志郎自民党政務調査会長に起用した[7]

2004年第20回参院選では、「自民党が51議席を獲得出来なければ党参院幹事長を辞任する」と自ら宣言していたが、結果は49議席と敗北。しかし、後継執行部人事で党参院議員会長の就任をベテラン議員に要請したところ、ことごとく辞退される。結局「他に会長になる人がいない」ということで、小泉の要請を受け入れる形で自らが党参院議員会長に就任し、「選挙の責任をとって昇格」と若手議員から批判を受けた。なお、この年から党参院議員会長の任期が1年から3年に延長された。

2004年日歯連闇献金事件が発覚したが、宴席において日歯連幹部が橋本会長に小切手を渡した後に青木が出席、小切手を渡したことに関し青木からお礼を述べられたと日歯連幹部が供述したが、青木は法廷で小切手授受の現場に居合わせたことを否定した。東京地検政治資金規正法違反で捜査していたが、不起訴となった。これについて検察審査会は不起訴は不当であるとする議決を行った。

2005年郵政民営化を巡る政局(郵政国会)では、必ず法案を通すことを条件に衆議院執行部側に法案修正や会期延長幅などについて譲歩させたが、参議院で大量の造反を許し面目を失う。しかしその後、第44回総選挙の結果が出ると参議院造反組は総崩れになり、参議院不要論まで飛び出るなど青木以上に面目を失ったため、青木体制は守られた。造反組への処分では衆議院議員に対しては除名や離党勧告を含めた処分で粛清と呼ばれるほどの人事がされた中で、参議院議員の造反組への処分としては参議院幹部としては、今後の参議院審議の見込みなどから衆議院公認候補に反して立候補していないことを理由に、新党に積極的に参加した議員を除き、執行猶予をつけた上での党員資格や党役職の停止という処分にとどめることを提案し、造反組をできるだけ自民党に留めることを考えた。

2006年、青木は小泉の退任により首相に就任した安倍晋三の下でも参議院枠として2つの閣僚ポストを確保し内閣への影響力を維持した。一方で小泉改革によって弱体化した地方組織を立て直すために郵政造反組の復党を安倍に提案。しかし、党内での反対論が噴出。12月に11人が復党したが、内閣支持率の低下につながった(郵政造反組復党問題)。
小沢民主党への危機感

2007年第21回参院選に向け、かつては同じ派閥であった民主党代表小沢一郎が相次いで打ち出した農家への戸別所得補償など地方重視の政策に対し、市町村合併によって共に戦う地方議員の減少、地方の自民党離れなどの悪条件を察知した青木は深い危機感を募らせた。そのため、安倍総裁に小沢民主党の脅威と地方重視の政策を再三に渡って忠告した。また参議院で与党が過半数割れになった場合「与党が過半数割れすれば法案は1本も通らず、安倍内閣も自民党も完全に死に体だ。国民は黙っておらず、衆院を解散して民意を問え、となる」と述べ、与党が敗北すれば政権運営の困難化と早期の解散総選挙が避けられない見通しを示した。

しかし、安倍は積極的に検討せず、そこに年金問題や閣僚の不始末に対する自民党への不信が高まる中、青木は改革を国民に示すべく安倍内閣の天下り規制などの公務員改革案に乗り、参院選年の会期延長による審議時間確保や民主党委員長による逆転委員会に対する中間報告による強行採決などの「奥の手」を通じて公務員改革法を成立させたが、参院選は自民党の惨敗(37議席)に終わり民主党に参院第一党の座を奪われ、ねじれ国会となった。また参院津島派は参院幹事長の片山虎之助、青木側近の景山俊太郎らが落選、当選者がわずか3名で町村派に参院第1派閥を引き渡した。影響力低下が確実となり、青木は党参院議員会長の職を辞任し、党島根県支部連合会会長職の辞意も表明した。参議院自民党最高顧問を新設し、就任を打診したが、固辞した。特に、景山の落選は島根県の衆参全議席を自民党で占めていた一角が崩れたこともあり、竹下王国あるいは青木王国の崩壊とまで言われた。

しかし参議院のドンとして築いてきた様々な人脈や政治勘もあり、参議院自民党幹部が青木に物事を相談することがしばしばあり、党内で隠然たる影響力を持っていた。
引退、晩年

2010年3月31日の参議院本会議における改正雇用保険法など10件の採決で、隣席に座る自民党の若林正俊議員が、出席の札を立てたまま議場を離れていた青木の投票ボタンを押した。若林は責任をとって議員辞職し、問題となった10件の投票は無効として扱われた。

同年7月の第22回参議院議員通常選挙について、党内からは若返りを理由に選挙時に76歳になる青木に対し公認を与えないよう執行部に求める動きもあったが、党で導入されている定年制(73歳)は比例代表のみ適用であるのに対し、青木自身は同年1月に選挙区からの出馬を表明し、島根県連も了承を経て自民党執行部は公認候補とした。


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