凡例青木 一重
青木一重像(仏日寺蔵)
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天文20年(1551年)
死没寛永5年8月9日(1628年9月6日)
改名一重
別名重通、法号:宗佐
通称:忠助、所右衛門(尉)、民部少輔
戒名梅隣院殿華屋令曇居士
墓所東京都渋谷区の祥雲寺
大阪府池田市の佛日寺
官位従五位下民部少輔
幕府江戸幕府
主君今川氏真→徳川家康→丹羽長秀→豊臣秀吉(秀頼)→徳川家康→秀忠
藩摂津麻田藩主
氏族青木氏
父母青木重直
兄弟一重、女(小寺則頼
青木 一重(あおき かずしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。摂津国麻田藩初代藩主。諱は重通ともいう。通称は所右衛門尉、民部少輔。官位は従五位下民部少輔。 天文20年(1551年)、青木重直の長男として美濃国で生まれた[5]。青木氏は美濃の豪族で、土岐氏、斎藤氏に仕えていたが、経緯は不明だが、一重は父・重直の下を離れて、初め駿河の今川氏真に仕えた。 新坂(にいさか)の戦いで、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金を受け取った。永禄11年(1568年)の今川氏滅亡の際の駿河侵攻で、武田・徳川軍との交戦で負傷して、遠江国掛川に蟄居した[5]。 元亀元年(1570年)、徳川家康に召されて仕えることになり、6月の姉川の戦いでは、朝倉家の武将・真柄直隆の子・隆基(十郎)を討ち取るという武功を挙げて勇名を轟かせ、褒美に脇差を賜った[5]。
略歴
丹羽家の家臣として、天正10年(1582年)の山崎の戦い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いなどに参加したが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、使番となり、後に黄母衣衆に選抜された[5]。同年、摂津国豊島郡内に知行を与えられ、備中国・伊予国内などで加増されて、併せて1万石を領し、麻田城主(麻田陣屋)となった[5][8]。
天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、従五位下民部少輔に叙任され、七手組[10]の組頭の一人とされた[5]。