青年日本号
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青年日本号

青年日本号(せいねんにほんごう)は、石川島飛行機製作所が設計および生産した練習機R-3を、さらに長距離飛行用に改造した、乗員2名の複葉プロペラ機。1931年(昭和6年)に法政大学航空研究会が日本学生航空連盟を代表して敢行した、日本初の学生訪欧飛行で採用された機体である。

青年日本号は地図と羅針盤だけに頼る有視界飛行で、東京?京城?満州?モスクワ?ベルリン?ブリュッセル?ロンドン?パリ?リヨン?マルセイユへと、中国大陸ユーラシア大陸などの各主要都市を経由しながら、1931年8月31日に最終目的地のローマに到着。発動機の故障や天候不良などによって2回の不時着[注釈 1]に見舞われながらも、約3ヶ月の期間を要して、全航程13,671 kmにも及ぶ長距離飛行を完遂した[2]

なお機名は、法政大学の校歌(作詞:佐藤春夫、作曲:近衛秀麿)の一節である「青年日本の代表者」に由来する[2][3]
学生訪欧飛行計画発表までの経緯
法政大学航空研究会の設立

青年日本号の誕生は学生訪欧飛行計画に起因するが、事実上それを主導したのが、日本で最初の学生航空団体として設立された、法政大学航空研究会である。在学時の前田岩夫戦後の航空業界にも顕著な足跡を残した中野勝義

同研究会設立の発端となったのは、当時在学していた法文学部3年の前田岩夫と、同窓の中野勝義が意気投合し、学内で学生航空団体の発足を企画したことに始まる。前田は既に自家用飛行機と2等飛行士の免許を所持しており、それに刺激された中野が学友会委員の立場から、率先して航空研究会の設立に奔走。結果的に大学側の許可を得ることに成功し、日本初の学生航空団体を設立するに至った[2][4][5][注釈 2]

両者は卒業後、前田が日本航空輸送会社の定期航空操縦士に、また中野は東京朝日新聞社に入社し航空部で活躍。社会人になってからも、学生訪欧飛行計画の実現を影で支えた[2][4]。特に中野は第二次世界大戦後も、敗戦で失職した航空関係者を救済する興民社の設立や、全日本空輸(ANA)の前身である日本ヘリコプター輸送株式会社(通称・日ペリ)の開業を実質的に主導し、草創期のANAでは幹部として活躍するなど、終戦から間もない日本の航空業界に顕著な足跡を残している[7][8][9][10]小説家で随筆家の内田百夏目漱石の門下生の一人で知られ、大学ではドイツ語の教授を務めた[注釈 3]司法大臣枢密顧問官など国の要職を歴任しながら、法政大学の学長を務めた松室致。同大学の航空研究会設立や学生訪欧飛行計画では、好意的な姿勢で後押しした。帝国飛行協会飛行館長であった、長岡外史陸軍中将(当時既に予備役)。長大な口髭は「プロペラ髭」と呼ばれていた。

1929年(昭和4年)7月5日に大学の大講堂で発会式を開催。作家でドイツ語の教授であった内田百(本名は内田榮造?)を、満場一致で会長に選出した[5]。この発会式には日本軍の航空分野の草創期に多大な貢献を果たしたとされる、長岡外史陸軍中将(当時は帝国飛行協会が運営する飛行館の館長)が招かれ、航空思想の普及について講演を行った[11][12]

発足までの一連の流れについて、航空研究会の会長に就任した内田百閨i以降、百閨jは次のように述べている。

「当時は未だ飛行機のよく落ちた頃であって、一般には飛行機はあぶない物と相場がきまっていた。(略)しかし右の学生航空を唱道した学生委員は熱心であって、(略)まず我我学生が飛行機に乗って社会一般に航空思想を普及せしめる。これによって今日の幼稚な航空界を進歩せしめると云う様な気勢であった」[13]

同時に、学生航空団体の設立を許可した大学側についても、高く評価している。

「学校の当局が先ずこの運動を認めて、学生による飛行機操縦の演練を許可することになった。学長は枢密顧問官松室致氏であった。当時としては非常に英断であった」[13]

さらに百闔ゥ身が会長に就任したことについては、「学生委員の依頼を受けて学校では会長を選任しようとしたが、そんな物騒な会の会長を受ける先生はいなかった。


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