青島神社
拝殿
所在地宮崎県宮崎市青島2丁目13-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度48分16.8秒 東経131度28分29.5秒 / 北緯31.804667度 東経131.474861度 / 31.804667; 131.474861 (青島神社)
青島神社(あおしまじんじゃ)は、宮崎県宮崎市青島にある、青島のほぼ中央に鎮座する神社で、周囲1.5kmの青島全島を境内地とする。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。
青島は全島が熱帯・亜熱帯植物の群生地として、国の特別天然記念物に指定されている。 天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと。彦火火出見命とも)とその妃神 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、そして塩筒大神(しおづつのおおかみ)を祀る。 いずれも山幸海幸神話に因む神で、縁結び、安産、航海安全の神として信仰を集めている。 元来は海洋に対する信仰によって創祀されたと考えられ[1]、古くから青島自体が霊域として崇められており[2]、そこから後述するように江戸時代まで全島が禁足地とされていた。社伝によれば、山幸海幸神話で、彦火火出見命が海神宮
祭神
由緒青島神社全体俯瞰
神社の旧記によれば、平安時代の日向国の国司の巡視記とされる『日向土産』なる書に「嵯峨天皇の御宇に奉崇(あがめまつる)青島大明神」と記され当時既に崇敬されていたと伝え、その後文亀3年(1503年)に伊東尹祐によって再興されて以降、伊東氏飫肥藩の篤い崇敬を受け、大永3年(1523年)、天正6年(1578年)、貞享4年(1687年)、寛保2年(1742年)、明和4年(1767年)、文化5年(1808年)と6度にもわたる社殿の造営・改修や、境内の保全事業が行われた。また、飫肥藩時代は藩士の中で土器(かわらけ)格の者1人を島奉行に任じ[注 2]、島内の樹林や磯辺を監守させた他、牛馬を渡島させたり発砲を禁じたりと一切の汚穢を警戒させていた[3]。元文2年(1737年)まで入島は神職と島奉行のみに限られ、村民は対岸の尖浜(現青島海水浴場)に拝所を設けて遙拝していたが、当時の神主であった長友肥後が藩主に解禁を申請し、以来一般人の渡島参詣が可能になった。
1871年(明治4年)、村社に列し、戦後は神社本庁の別表神社に指定された。
1881年(明治14年)に神社所有の境内地が上地され国有地となったが、戦後、神社が宗教法人となり、1949年(昭和24年)5月17日に国から境内地が返還されている[4]。 10月18日の例祭(秋祭)以外に、以下の神事が著名である。 長友氏が社家として勤める。口碑に、社家は古く青島背後の下加江田村という200戸程度の村落に居住したが、同村は寛文2年の大地震で水没したという[3]。
祭祀冬祭(裸参り)
神事
春祭(旧暦3月16日) - 往古はこの日から月末までの半月間は、一般の入島が許されていたため、今でも「島開き祭」と呼ばれる。因みに旧暦3月末日は「島成就」と呼ばれ、かつては一般の入島を禁じる島止祭が行われていた。
夏祭(旧暦6月17・18日) - 対岸の折生迫まで神輿の渡御が行われ、白浜海水浴場
冬祭(成人の日)) - 彦火々出見命が海宮から帰還した際に、村人が服を着る暇もなく出迎えたという故事に因むものと伝わり[5]、かつては旧暦12月17日の夜半から夜を徹して、近在の若い男女が真裸になって参拝していたため、「裸参り」とも呼ばれ、これを行うは千日参詣に等しいとされた。現在は氏子青年や信者が海水に浴して、静かに祈願する形に変わっている。
祠官
境内弥生橋と青島(現在の石橋は1951年(昭和26年)9月2日の竣工)
弥生橋 - 青島へ渡るための橋。1920年(大正9年)3月、昭和天皇が皇太子時代に行啓したさいに架設されたのが起源で、当時の御歌所所長入江為守により、3月に因んで「弥生橋」と名付けられた。当時のものは1940年(昭和15年)の台風によって全壊し、現在のものは1951年(昭和26年)9月2日に架け替えられたもの[6]。
手水舎
神門
本殿、拝殿 - 本殿は流造、拝殿は切妻造平入で、ともに銅板葺
御成道 - 1907年(明治40年)に大正天皇が皇太子時代に西国巡幸で当社を参拝したさいに、元宮までのビロウ林内に整備された参道[7]。
祈りの古道 - 御成道入り口にある絵馬掛けで作られたトンネル状参道[8]。
投瓮(とうか)所 - 天の平瓮投げといい、素焼きの盃を奥の磐境に投げ入れば心願成就、割れれば開運厄祓とされる[9]。
青島への参道
砂浜にある境内入り口
手水舎
神門
神門脇のビロウ(ヤシ科)
祈りの古道
御成道の亜熱帯性植物
投瓮所
境内社
元宮 - 本来の社地であったと伝わる。本社と同じ3柱の神を祀る。祭祀が行われていたと推定され、弥生式土器、獣骨等が出土している[9]。