青山杉作
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あおやま すぎさく
青山 杉作
1948年
本名青山 達美 (あおやま たつみ)
別名義元野 伊作
生年月日 (1889-07-22) 1889年7月22日
没年月日 (1956-12-26) 1956年12月26日(67歳没)
出生地 日本新潟県北蒲原郡紫雲寺村(現在の新発田市米子)
死没地 日本東京都港区麻布飯倉片町
職業俳優演出家映画監督
ジャンル映画舞台
活動期間1917年 - 1956年
配偶者青山万里子
主な作品
生の輝き
雨月物語』(1953年)
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青山 杉作(あおやま すぎさく、1889年7月22日 - 1956年12月26日)は、日本俳優演出家映画監督である。本名:青山 達美(あおやま たつみ)[1]
来歴・人物

1889年(明治22年)7月22日新潟県北蒲原郡紫雲寺村[2](現在の同県新発田市米子)にある浄土真宗大谷派紫雲寺に、父・宣と母・綱の長男として生まれる[3]。12歳下の弟に青山敏美[注釈 1] がいる。旧制新発田中学校(現在の新潟県立新発田高等学校)卒業。

1909年(明治42年)、旧制早稲田大学哲学科に入学[3]。在学中から演劇活動に参加し、同大学創立記念祭の野外公演で、青山杉作を名乗り初舞台を踏む[3]。しかし、僧籍を拒み演劇活動に熱中しすぎたため、実家から送金を絶たれてしまい[4]、英文科に転じた後大学を中退する。

1914年(大正3年)、新劇女優の内田鞠子(のちの青山万里子)と結婚[5]。この頃から村田実らの新劇団・とりで社の舞台に立つようになる。

1917年(大正6年)2月17日、村田、関口存男、木村修吉郎、近藤伊与吉らと踏路社を創立。牛込芸術倶楽部で長与善郎原作の『画家とその弟子』を公演して旗揚げ[4]1918年(大正7年)4月、イプセン原作の『幽霊』にマンデルス牧師を演じ、好評を博した[4]。また、1920年(大正9年)には友田恭助水谷八重子らが結成した「わかもの座」でも演出を務めた。

同年、帰山教正の映画製作に村田、近藤らとともに参加し、同年製作(翌年公開)の『生の輝き』と翌年の『深山の乙女』に出演。1919年(大正8年)に映画芸術協会を名乗り、『いくら強情でも』(1920年)では監督・脚本を務め、主演も果たした。1923年(大正12年)には伊藤大輔の脚本を得て帝国キネマで『山は語らず』[注釈 2] を撮った。

1924年(大正13年)、築地小劇場の創立に参加し、劇場開場後に同人となる[6][注釈 3]。始めは演技部に属し、第2回公演『狼』でチュリエ役等を演じた。同年10月の第12回公演『地平線の彼方へ』から演出部に加わり[7]、『青い鳥』『令嬢ジュリー』(1925年)、『大寺学校』(1928年)等を演出。その傍ら『役の行者』(1926年)などでは俳優として出演し、演技指導も行った。

1928年(昭和3年)、小劇場創立者の小山内薫が逝去し、その影響で劇団が分裂。土方与志丸山定夫山本安英薄田研二らは脱退して新築地劇団を結成したが、青山は小劇場に残り、他の残留組らと劇団築地小劇場として活動を続けた。しかし、1930年(昭和5年)1月に脱退して、東山千栄子汐見洋らと劇団新東京を創立(翌年劇団東京に改組)。同時に松竹少女歌劇団の養成指導を10年間行い、水の江瀧子らを育てただけでなく、元野伊作の筆名で脚本も書き、70作もの作品を演出した[3]1942年(昭和17年)からは東京放送劇団で5期生までの演技指導を行った[3]

同年の藤原歌劇団公演グノーファウスト』から、オペラの演出も23回にわたり手掛けている。後に長門美保歌劇団に加え、1952年(昭和27年)の二期会旗揚げ公演プッチーニラ・ボエーム』も青山の演出であった。オペラ演出は、療養中で逝去前年の1955年(昭和30年)まで続いた。その中で助手に栗山昌良を起用し、のちの演出の第一人者に育てている[8]

1944年(昭和19年)2月、千田是也小沢栄太郎東野英治郎、東山らと俳優座を結成。第1回作品『検察官』で千田と共同演出・共演し、以来演出・演技の両方で活躍。1945年12月26日、戦後初の新劇公演(合同公演)では『桜の園』の演出を行った[9]1949年(昭和24年)には俳優座養成所所長となり後輩の指導を行った。一方で、映画にも多く出演しており、黒澤明監督の『醜聞』や溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)などに脇役で出演した。

1954年(昭和29年)、三島由紀夫作の舞台『若人よ蘇れ』の稽古中に倒れて療養していたが、1956年(昭和31年)12月26日午前5時半、心筋梗塞のため死去した[10]。享年67。12月30日俳優座劇場で劇団葬が営まれた[10]。墓は青山霊園にある。
受賞歴

1951年:
放送文化賞

1951年:毎日演劇賞

1955年:紫綬褒章[11]


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