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出典検索?: "青山忠重"
この項目では、江戸時代の大名について説明しています。戦国武将については「青山忠重 (戦国武将)」をご覧ください。
凡例青山忠重
時代江戸時代前期 - 中期
生誕承応3年5月23日(1654年7月7日)
死没享保7年10月28日(1722年12月6日)
改名忠重、清林(法号)
戒名清林義泉真正院
墓所東京都品川区北品川の東海寺
官位従五位下・下野守、因幡守
幕府江戸幕府
主君徳川綱吉→家宣→家継→吉宗
藩遠江浜松藩主→丹波亀山藩主
氏族青山氏
父母父:青山宗俊、母:大河原氏
養父:青山忠雄
兄弟忠丸、忠雄、忠重、貞俊、忠貴、永井尚長正室
妻正室:青山幸通の娘
継室:青山幸実の娘
側室:上田氏
子俊春、伊達村豊正室、青山貞信室、九鬼隆直正室ら
養子:忠貴
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青山 忠重(あおやま ただしげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。遠江国浜松藩の第3代藩主、丹波国亀山藩の初代藩主。官位は従五位下・因幡守。青山家宗家13代。 承応3年(1654年)5月23日、浜松藩初代藩主(当時は信濃国小諸藩主)青山宗俊の三男として小諸で誕生した。天和3年(1683年)8月5日、兄で浜松藩の第2代藩主である忠雄の養子となり、12月に従五位下・下野守に叙位・任官する。貞享2年(1685年)、兄の死去により家督を継いだ。 元禄15年(1702年)9月7日、浜松藩から亀山藩に移封される。正徳4年(1714年)9月に因幡守に遷任する。享保7年(1722年)6月18日に家督を四男の俊春に譲って隠居し、出家して清休と号したが、直後の10月28日に死去した。享年69。 丹波亀山藩主時代の宝永2年(1705年)、農業振興の一環として、東中(ひがしなか)村[1]の小豆の優秀さに目をつけ、庄屋に一石を上納させ、その中から精選したもの一斗を5代将軍・徳川綱吉に献上したところ、幕府の評判になった。綱吉がこの中からさらに粒を選んで朝廷に献上し、朝廷でも激賞されたことから大納言小豆と称されたのが、丹波大納言小豆
生涯
人物
系譜
父:青山宗俊(1604年 - 1679年)
母:大河原氏
養父:青山忠雄(1651年 - 1685年)
正室:青山幸通娘
継室:青山幸実娘
側室:上田氏
四男:青山俊春(1700年 - 1730年)
生母不明の子女
女子:伊達村豊正室
女子:青山貞信
女子:九鬼隆直正室 - 後酒井忠菊継室
養子
男子:青山忠貴(1658年 - 1713年) - 青山宗俊の五男
脚注^ 現在の丹波市春日町東中。
^ 綱吉が「権大納言」であった期間は、将軍後継者となった延宝8年(1680年)5月7日から8月21日の将軍就任までの3か月半のみであり、将軍と大納言の両方であったことはない。
表
話
編
歴
青山家浜松藩3代藩主(1685年 - 1702年)
桜井松平家
松平忠頼1601-1609
殺害され、養子も認められず改易
水野家
水野重央1609-1619
紀伊新宮藩に転封
高力家
高力忠房1619-1638
肥前島原藩に転封
大給松平家
松平乗寿1638-1644
上野館林藩に転封
太田家
太田資宗1644-1671
太田資次1671-1678
畿内周辺に転封
青山家
青山宗俊1678-1679
青山忠雄1679-1685
青山忠重1685-1702
丹波亀山藩に転封
本庄松平家
松平資俊1702-1723
松平資訓1723-1729
三河吉田藩に転封
大河内松平家
松平信祝1729-1744
松平信復1744-1749
三河吉田藩に転封
本庄松平家
松平資訓1749-1752
松平資昌1752-1758
丹後宮津藩に転封
井上家
井上正経1758-1766
井上正定1766-1786
井上正甫1786-1817
陸奥棚倉藩に転封
水野家
水野忠邦1817-1845