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出典検索?: "青山幸利"
凡例青山 幸利
時代江戸時代前期
生誕元和2年(1616年)
死没貞享元年8月2日(1684年9月11日)
改名石之助(幼名)、幸利
戒名成覺院殿廓譽一法道山大居士
墓所兵庫県神戸市中央区楠町の安養寺(浄土宗)
東京都港区青山の梅窓院(浄土宗)
官位従五位下・大膳亮
幕府江戸幕府奏者番
主君徳川家光→家綱→綱吉
藩摂津尼崎藩主
氏族青山氏
父母父:青山幸成、母:小出氏[1]
養母:小笠原信之娘
兄弟幸利、幸通、幸正、幸高、堀親昌継室、水谷勝宗正室、松平信久正室
妻加藤明成の娘
子幸実、松平信興正室
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青山 幸利(あおやま よしとし)は、江戸時代前期の大名。摂津国尼崎藩2代藩主。官位は従五位下・大膳亮。 元和2年(1616年)、のちに尼崎藩初代藩主となる(当時は知行が1万石に及ばない旗本)青山幸成の長男として誕生した。寛永20年(1643年)に父が死去したため、家督を継いだ。このとき、父の遺言で弟たちに合わせて6000石を分与したため、尼崎藩は4万8000石となった。 寛永20年(1643年)、2年前の振袖火事の教訓から、幕府は江戸の防火体制の強化を目的に大名火消を制度化した。6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成された火消役の一家として幸利が任命された。 万治2年(1659年)2月21日に奏者番に任じられる。延宝5年(1677年)、播磨国における幕府領の検地を務めた。藩政では名のある浪人を登用して家臣団の刷新を行い、治水事業を行っている。 貞享元年(1684年)、死去。享年69。長男の幸実は病弱だったために廃嫡し、幸実の長男・幸督が跡を継いだ。 神戸市中央区楠町にある浄土宗大悲山安養寺の墓所には、平沼騏一郎書とされる「青山幸利候景仰碑」が建立されている。 建武の親政から南北朝の時期に活躍し、湊川の戦いで敗死した著名な武将である楠木正成の戦没地を、幸利は領内を調査し比定した上で同地に五輪塔を立てた。この地はのちに湊川神社となった。幸利は領内の外れの位置であるにもかかわらず、同地近隣に自らの墓所を設定し、そこに葬られている。 後世、尼崎藩士の桑原重英の手により、幸利の言行を集めた『青大録』[2]が、また『青大実録』が編纂された。『青大録』には幸利の逸話が60余編収録されている。ただし後世に伝を集めた書であり、幸利の当時の言動・史実と必ず合致するという確証はない。また幸利は『名将言行録』にも記載がある。 幸利は領国にいる間は、朝食と夜食だけであり、昼食は摂っていない。
生涯
湊川
逸話
『青大録』『名将言行録』における青山幸利
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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