青山北町アパート(あおやまきたまちアパート、青山北町団地)は、東京・青山(北青山三丁目)にあった都営住宅(団地)。東京都営住宅条例に基づき、東京都都市整備局によって管理・運営されている。2006年(平成18年)頃以降には住民の退去が進められ、一帯は再開発工事が行われている。 所在地は港区北青山3-4他であり、青山通り(国道246号線)の北側裏手に広がる約4ヘクタールに及ぶ敷地内には[1]1957年(昭和32年)から1968年(昭和43年)にかけて建設された4階から5階建てのアパートが25棟建っていた[2]。 都営住宅の常として、全戸が賃貸の集合住宅であり[3]、2011年時点の管理戸数は376戸となっている[2]。各戸の面積は32 - 52平米、間取りは2DK - 3DKで[2]、いずれの建物にもエレベーターは設置されていない。また、団地の敷地内には港区立青山保育園や訪問看護ステーションなどが設置されている。 東京都の再開発事業「北青山三丁目地区まちづくりプロジェクト」が行われており、2019年に20階建ての都営北青山三丁目アパートが竣工した。 青山北町アパートの所在地は、師範学校や東京府立の旧制中学校など、いくつかの学校の跡地である。 初めは1900年(明治33年)、東京府師範学校[4]、および東京府師範学校附属小学校[5] がそれまでの小石川区竹早町からこの地(当時の赤坂区青山北町5丁目)に移転・開校した。1908年(明治41年)には東京府青山師範学校、および東京府青山師範学校附属小学校とそれぞれ改称し、1936年(昭和11年)に下馬町(現在の世田谷区)に移転するまで[6] 当地にあった。 師範学校と同附属小学校の移転後にはいくつかの府立新設中学校等が一時的に仮校舎としてこれを使用した[7]。1937年(昭和12年)から翌々年まで東京府立第十中学校(都立西高校の主な前身)が、1939年(昭和14年)から翌年まで東京府立青年学校教員養成所が置かれた。さらに、1940年(昭和15年)には東京府立第十五中学校(都立青山高校の主な前身)がここに開設された。 しかしながら、諸々の学校によって使われたこれら校舎・施設は、1945年(昭和20年)5月のアメリカ軍による東京大空襲によって焼失、第十五中学校もこれによって当地での教育が続けられなくなり、終戦後も当地に戻ることはなかった。 著名な卒業生には、男爵・團琢磨の孫で作曲家の團伊玖磨などがいる。 かつて学校があった青山北町アパートの青山通り側入り口付近には、東京府師範学校(東京府青山師範学校)の同窓生によって1972年(昭和47年)に建てられた記念碑が存在する。
概要
青山北町アパート(左、改築前)
建屋入口の階段(2019年2月)
青山北町アパート(2019年2月)。奥は建設中の北青山三丁目アパート。
東京府青山師範学校青山師範学校跡を表す碑
脚注^ ⇒どうなる都営青山北町アパート 港区議会議員小斉太郎ウェブサイト、平成23年5月29日閲覧
^ a b c ⇒都営住宅団地一覧 東京都都市整備局、平成23年5月29日閲覧
^ 都営住宅団地一覧
^ 現在の東京学芸大学の前身の一つ。東京府師範学校(のちに東京府青山師範学校から東京第一師範学校に改称)の卒業生には、作家・南洋一郎、箕田源二郎、サッカー選手・山田午郎、歌人・若林牧春、中国研究者・加藤虎之亮らがいる
^ 同師範学校附属小学校の卒業生には、政治家・原島宏治、作曲家・團伊玖磨、戸田邦雄、作家・中村雨紅、俳人・清水基吉、発明家・ドクター中松らがいる
^ この青山師範学校の東横線沿線への移転の背景には、東急電鉄創業者である五島慶太による資金援助を伴う強力な勧誘があった
^ ⇒東京府青山師範学校 「青山の歴史」 青山表参道商店会ウェブサイト、平成23年5月29日閲覧