この項目では、元衆議院議員について説明しています。同じ読み方の歌手・俳優・タレントについては「青山孝史」をご覧ください。
日本の政治家青山 丘あおやま たかし
生年月日 (1941-04-11) 1941年4月11日
出生地 愛知県瀬戸市
没年月日 (2019-01-09) 2019年1月9日(77歳没)
死没地愛知県瀬戸市[1][2]
出身校慶應義塾大学法学部法律学科卒業[3]
所属政党(自由民主党→)
(民社党→)
(新進党→)
(自由党→)
(保守党→)
(自由民主党→)
(新党日本→)
国民新党
称号旭日大綬章
法学士(慶應義塾大学・1964年)
衆議院議員
選挙区(旧愛知2区→)
(愛知7区→)
比例東海ブロック
当選回数9回
在任期間1976年 - 1990年1月24日
1993年 - 2005年8月8日
瀬戸市議会議員
当選回数2回
在任期間1971年 - 1976年
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青山 丘(あおやま たかし、1941年4月11日 - 2019年1月9日)は、日本の政治家。位階は従三位。勲等は旭日大綬章。
衆議院議員(9期)、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長、衆議院労働委員長、文部科学副大臣などを歴任。
概要2002年、文部科学省にてアメリカ合衆国海洋大気庁の長官コンラッド・ラウテンバッハー(左から1人目)、長官首席補佐官スコット・レイダー(右から1人目)と。
愛知県瀬戸市生まれ。1964年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業後[3]、青山硝子に入社。
1971年、瀬戸市議会議員選挙に立候補し当選。自由民主党に所属し、以後2期務める。
衆院選立候補にあたり自民党の公認を得られなかったため、1976年第34回衆議院議員総選挙に民社党から立候補し当選する。以後、落選を挟んで9回の当選を果たすことになる。民社党では最後の国会対策委員長に就任。
1990年の第39回衆議院議員総選挙では落選するが、1993年の第40回衆議院議員総選挙で日本新党から推薦を受けて当選し政界に復帰。
1994年12月、新進党の結党に参加。小沢一郎に近い立場を取り、新進党分裂後は、小沢について自由党に参加した。しかし、自自連立後は、自由民主党への合流を指向するようになり、2000年の自由党分裂では保守党に参加する。しかし、選挙区の愛知7区には自由民主党公認の鈴木淳司が既にいたため、選挙協力と引き換えに自由民主党に入党。鈴木との間でコスタリカ方式を結び、自身は比例区(比例東海ブロック)から当選。
自民党では志帥会に参加。2001年、小泉内閣が成立すると、文部科学副大臣に任命。
2005年7月5日の郵政民営化法案の衆議院本会議採決で反対票を投じた。同8月21日自由民主党を離党し、田中康夫を代表とする新党日本立党記者会見に参加、副代表に就任する。同9月11日、第44回衆議院議員総選挙に比例東海ブロックより出馬するが、あと一歩届かず落選。