青い目の人形
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この項目では、人形について説明しています。曲については「青い眼の人形 (楽曲)」を、映画については「青い眼の人形 (映画)」をご覧ください。
「青い目の人形」(日本の皇室に献上されたとされるアメリカ各州の代表人形の一部)アメリカに送られる日本の人形(後述の「青い目の人形」に対する各地域の代表の答礼人形とは異なる)

青い目の人形(あおいめのにんぎょう、: American Blue-eyed Dolls)は、1927年昭和2年)に、アメリカ合衆国から日本に両国間の親善を目的として贈られた人形(Friendship Dolls:友情人形(ゆうじょうにんぎょう)またはAmbassador Dolls:人形使節(にんぎょうしせつ))の日本における通称。本記事では日本より当時のアメリカへ返礼のために贈られた人形(Japanese Friendship Dolls:答礼人形(とうれいにんぎょう))についても解説する。
概要日米の人形交換を進めた渋沢栄一と「青い目の人形」写真は渋沢史料館所蔵

明治時代末期の日露戦争終結により日本満州の権益を獲得する情勢になると、予てから中国進出を画策していたアメリカ合衆国との間では日本との政治的緊張が高まるようになっていた。また、アメリカ本国においても、日系移民が大量に移住することにより、経済不況の下にありながら1日1ドルの低賃金でも真摯に働く日本人によって、アメリカ人の労働力を損ねる恐れがあったためや、既に根付いていた人種的偏見等も相俟って(アメリカ合衆国の人種差別)、1913年カリフォルニア州議会による「外国人土地法(外国人土地所有禁止法)」の制定[1]1924年にアメリカ議会で「ジョンソン=リード法(通称・排日移民法)」が成立した事もまた、日本国内での反米感情を煽ることになり[2]、両国民の対立を深める一因になった。

そのような情勢下で日米の対立を懸念し、その緊張を文化的に和らげようと、アメリカ人宣教師シドニー・ギューリック博士(1860年 ? 1945年)が「国際親善、人と人との理解は大人になってからでは遅い。[3]」と子供の世代からの国際交流を重視すべく「世界の平和は子供から」をスローガンとして掲げ[4]1925年2月に「万国児童親交会委員(世界児童親善会)」を結成し、その第一事業として1927年(昭和2年)3月、子供同士の友好親善に代わって、廉価の人形を通じての日本との親善活動が行われた[5][注釈 1]。予てからギューリックと親交があり、近代日本財界の重鎮であった渋沢栄一1840年 ? 1931年)も、1902年から続いたアメリカへの度重なる渡航を通じて徐々に悪化していく日米関係を憂慮しながら、ギューリックの提唱に共感し、この事業の仲介を担った。これに伴い日本側も渋沢を代表とした「日本児童親善会」を結成し、アメリカから贈られる人形の授受や諸手続きの事務処理を行い、文部省外務省にはそれぞれ全国の児童たちへの人形の配布、関税に対しての優遇措置を依頼し、経費の方は渋沢関連の団体が大部分を負担する形を取った[6]。この「人形計画」に対し、幼稚な発想だとか日本人への侮蔑を意識した冷笑的な向きもあったが、「生来子どもの心に偏見はなく、友情にあふれているもの、子ども世代から親善と理解を育てたい」の理念を掲げ、全米にこの運動を呼び掛けた。

1926年の夏にはアメリカから日本との親善活動の一環として子どもたちのサマースクール、教会の日曜学校、社交団体の参加者によって人形の洋服の製作が行われ[7]同年10月-12月には全米より人形が集められた。翌年のひな祭りの日である1927年3月3日に間に合う様に日本郵船等5社(他に大阪商船(現・商船三井)、Dollar Steamship Company(現・アメリカンプレジデントラインズ)、Kawasaki Roosevelt Line(現・川崎汽船)、China Mutual Steam Navigation Company(現・ブルー・ファンネル・ライン(英語版))[8])の前橋丸、アングル丸など12隻[9]に分乗し日本の子供に12,739体[注釈 2]の「青い目の人形」が、遅れて鳥羽丸で各州代表の人形48体[注釈 3]と「ミス・アメリカ」及びワシントンD.C.が贈られた[10]

12,739体の「青い目の人形」はニューヨークサンフランシスコを出港し、1927年1月17日に横浜港へ到着したサイベリア丸をはじめ、次々に人形を乗せた船便が横浜神戸に着いた後、子どもたちへの人形に対する興味を通じて友情や平和への関心を導くために予め東京市内の有名デパートをはじめ、大阪など地方の会場での「青い目の人形」の展示会が催されたうえで、1927年3月3日に東京の日本青年館や大阪の大阪市中央公会堂で歓迎式典が行われ[11][12]、全国各地の幼稚園・小学校等に配られて歓迎された(但し、数が限られていたこともあり[注釈 4]、全ての小学校・幼稚園など(昭和2年当時:小学校25,546、幼稚園1,182、盲・ろう・養護学校118、高等女学校898、合計27,744(文部省管轄。これに保育所300余りも加わる)[14][15][注釈 5])に配布されたわけではなく、大阪府のように抽選で決められた地域もある[16][17])。道府県ごとの人形の分配については均等とは限らず、文部省の基準により、師範学校の附属校や道府県庁所在地及び主要都市ならびに外国人の多く滞在する地区の幼稚園・学校などから優先されているが、あくまでも目安であり、あとは自治体の判断に委ねられることになった[18][19]。また、一部の人形は個人にも配布された。

「ミス・アメリカ」及びワシントンD.C.と48体の各州代表人形は天候不良による遅延のため、1927年(昭和2年)3月14日に到着し、3月18日に天洋丸の船室で児童の出迎えを受け、横浜の本牧小学校で歓迎式典を開かれた後、皇室に献上される為同月26日に東宮御所に運ばれた(48体の各州代表人形は後に香淳皇后より、内帑金(ないどきん)が下賜され、子供たちの利用が多い東京博物館(現国立科学博物館)の上野別館に建てられた人形の家材の5分の1の模型で1階は和室、2階が洋間のしつらえになっていて、庭には遊具が備えられていた[20])にて、同数の日本人形と共に6/11?7/31の会期中に『全国学校科学教育展覧会』[21]で展示されていたが、1945年(昭和20年)1月の空襲による爆撃に伴う混乱によりそのほとんどが行方不明となった[22]。)。

返礼として、渋沢栄一を中心とした日本国際児童親善会による呼びかけで、人形が贈られた幼稚園・小学校等の児童から集められた募金を元に製作された「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体(「ミス大日本」及び1道3府43県や主要6都市・統治していた外地4箇所の名を冠した人形)が同年11月に天洋丸で日本からアメリカ合衆国に渡り、全米の児童たちの歓迎を受けたうえで各地の博物館・美術館などに寄贈された。

日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争第二次世界大戦)中は、アメリカを敵視する風潮[注釈 6]の下で、敵性人形としてその多くが処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が非国民と思われる覚悟で人形を奉安殿備え付けの棚や天井裏、床下、物置、石炭小屋、教員の自宅などに匿い、戦後に相次いで発見された。現存する人形は2024年4月現在、346体にすぎないが、日米親善と平和を語る資料として大切に保存され、学校の教科書[24]、絵本や小説・アニメなどの題材にもなっている。答礼人形の方も不明になった人形があるものの、大半の人形が今もアメリカの各公共施設で保管されており、互いに人形の里帰りや「新・友情人形」寄贈などのイベントといった形で現在も子供同士の交流が行われている。

人形計画自体は当時の移民問題の解決に直結することはなかったが、戦争を挟んで人形を通じての文化的な交流を続けるうえでの一つのきっかけにはなったとも言える。


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