露梁海戦
露梁海戦(ろりょうかいせん)は、慶長の役における最後の大規模海戦である。慶長3年(1598年)11月18日(和暦/以下同)に無血撤退の双方合意を取り付けた上で撤退しようとした順天城守備の小西行長らに対し、約束を違えて攻撃を加えようとした明・朝鮮水軍と、撤退する船団を援護するために海路出撃した島津軍を中心とした日本軍との間に露梁津で起こった海戦である。小西行長軍はこの戦いの最中、戦闘に参加することなく巨済島への撤退に成功した。
露梁津は、南海島と半島本土との間にある海峡の地名で、朝鮮水軍の主将李舜臣はこの戦いで戦死した。韓国では露梁大捷[4]と呼ばれ、朝鮮・明連合水軍が日本軍に大勝した戦いとされるが、日本側の文献では成功した作戦として記述されている。両軍の戦力および損害については不詳の点が多く隻数については異説がある。 慶長3年(1598年)、日本軍最左翼の要衝である順天城守備の小西行長らは南下してきた明・朝鮮軍の9月19日から10月4日にわたる陸海からの攻撃を退け、10月9日には明・朝鮮水軍も拠点であった古今島へ退いた(順天城の戦い)。その後、豊臣秀吉死去に伴う帰国方針が朝鮮在陣の日本軍に伝えられ釜山へ撤退することとなった。小西行長は明将劉?と交渉して無事に撤退することで合意が成立し、11月10日、船団を仕立てて退去を図った。ところが、このころ日本軍帰国の内情[5]は明・朝鮮水軍も知るところとなっており、順天城退去の直前に和議を覆す形で光陽湾に再進出して日本軍の退路を遮断した。このため小西行長らは順天城へ引き返さざるを得なくなった。 既に撤退のため巨済島に集結を終えていた島津義弘、宗義智、立花宗茂(当時の名乗りは親成)、高橋直次、小早川秀包、筑紫広門(上野介広門の子・主水正広門。当時の名乗りは茂成)らの左軍諸将や撤退の差配に出向いていた寺沢広高(正成)はそれを知り、急遽五百隻(三百隻とも言う)の兵船を仕立て、救援のため17日の夜、順天へと向かった。これを知った明・朝鮮水軍も迎撃するため封鎖を解き露梁津へと東進した。 18日未明、露梁津を抜けようとした日本軍は南海島北西の小島、竹島の陰に潜んだ明水軍と同じく南海島北西の湾、観音浦に潜んだ朝鮮水軍とに出口で待ち伏せされ、南北から挟撃される形で戦闘が始まった。島津の将樺山久高率いる一帯は海峡突破に成功したが、これは朝明連合軍側の誘引策であり、本隊と分断され、当初朝鮮水軍が待ち伏せしていた観音浦に逆に押し寄せ、浅い瀬に座礁して船を失い、徒歩で南海道を横断して東岸に脱出しなければならない状況も起きた。主将の島津義弘の乗船も潮に流されて後落し、敵船から熊手などを掛けられ切り込まれそうになる窮地に陥り、他家の救援も得てようやく脱出できたと伝えられる。退路のない観音浦に誤って入ってきたことに気づいた島津側は脱出を試みたが、連合軍は風が陸地に吹いてくるのを利用して火矢と藁の山を投げて島津側の船体に火をつけた。 この戦いについて、島津家臣の川上久国は自身の日記で海戦にも敵の偵察を用心し、善戦した立花高橋軍に比べ自軍の死傷甚大を嘆いていると記述した、また、宗茂は朝鮮船六十隻を捕獲して日本軍の撤退に用いた[6]。この渦中に朝明連合軍が援軍を攻撃する隙間に乗った小西は脱出に成功し、島津側は包囲攻撃を突破するために朝明連合軍包囲網を突破しようと試みる。 このように戦況は日本軍に不利であり、夜が明けるころには大勢は決し、日本側の撤退により戦闘は終結した。
海戦の背景
戦闘の経過