露文科
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ロシア文学(ロシアぶんがく、ロシア語: Русская литература)とは、ロシア作家によって書かれた、あるいはロシア語で書かれた文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のこと。一般的には、旧ソビエト連邦体制下の作家を含む。

いわゆるロシア文学が生まれたのは比較的遅く17世紀になってからであり、戯曲から始まったが、間もなく非常に豊かな小説の伝統が生まれた。

続く19世紀にはアレクサンドル・プーシキンフョードル・ドストエフスキーニコライ・ゴーゴリレフ・トルストイイワン・ツルゲーネフといった偉大な小説家たちが現れ、世紀の終わりには劇作家アントン・チェーホフも登場した。

20世紀に入ると、象徴主義未来派の詩が、強力な理論活動と共に新しい文学の飛躍をもたらしたが、すぐにソ連の迫害に直面することになった。それでも20世紀にはセルゲイ・エセーニンウラジーミル・マヤコフスキーなどのような詩人や、マクシム・ゴーリキーボリス・パステルナークミハイル・ショーロホフミハイル・ブルガーコフなどの小説家が輩出した。ヴァシリー・グロスマンヴァルラーム・シャラーモフアレクサンドル・ソルジェニーツィンらのソ連の全体主義体制を告発する作家たちは特に強くスターリンによる抑圧を被った。

ソ連の崩壊と共産主義体制の消滅により、1990年代には新しいロシア文学が徐々に生まれつつある。
起源「ロシアの歴史」も参照ノヴゴロド写本(英語版)

西欧諸国とは異なり、ロシアには11世紀以前にはいかなる文書も存在していない[1]――ノヴゴロド写本(英語版)が最も古い文学的文書であると思われる。タタールのくびきのため、ロシアには騎士道が見られなかった。「ロシアでは人文主義宗教改革ルネサンスのいかなる痕跡も見出すことができない[2]。」17世紀以前のロシアには通俗的な物語を除くと宗教的でないいかなるテクストも存在せず、18世紀にモスクワ大学が設立されるまでは大学も存在しなかった。

東西教会の分裂以降の西欧諸国における神学上および思想上の対立は、ロシアにおいてはローマドイツからの影響の拒絶という形で現れる。トルコによる1453年コンスタンティノープルの陥落以降、モスクワはビュザンティオンの遺産を手にしており、ロシアはより好んでビュザンティオンを拠り所とした。モスクワは第3のローマを自認し、双頭の鷲をシンボルとした。
「文学」という語

ステパン・チェヴィリオフ[3] (1806-1864)によれば、「文学」を意味するLiteratura (Литература)という語は18世紀の借用語である。Slovenost (Словесность)が古来からある語で、「言葉の芸術」を意味する[4]。書かれた芸術と、それから特に、口述による芸術である。Литератураが筆記によるもの、Словесностьが言葉によるものを指す。
古代ロシア文学イーゴリ遠征物語アレクサンドル・ネフスキー

古代ロシア文学は、古東スラブ語古代教会スラヴ語とは異なる)で書かれた少数の作品から構成されている。イーゴリ遠征物語囚人ダニールの請願などの作者不詳の作品がこれに含まれる。いわゆる「聖人伝」(жития святых, zhitiya svyatikh)は古代ロシア文学において一般的なジャンルであった。アレクサンドル・ネフスキー(Житие Александра Невского, or Zhitiye Aleksandra Nevskogo)はその著名な例である。その他に注目すべき作品としては、『ザドンシチナ(英語版、ロシア語版)』、『生理学者 (ロシア文学)(英語版)』、『キエフ概要(英語版)』、『3つの海のかなたへの旅(英語版、ロシア語版)』などがある。口承による叙事詩であるブィリーナでは異教とキリスト教(特に正教)の諸伝統が混淆しており、ビュザンティオン文学(英語版)からの影響を感じさせる。中世ロシアにおける文学は、そのほとんどがキリスト教に根ざした人物の物語であり、南スラブの伝統がちりばめられつつも古代教会スラブ語が用いられる事が多い。口語を用いた初めての作品は、17世紀中頃に執筆されたアヴァクーム自伝である。

ジョチ・ウルスによる長きに亘るタタールのくびきの後、最初の「全ロシアのツァー」イヴァン4世(1530-1584)の治世下でモスクワ大公国を中心としてロシアの領域は統一された。イヴァンの死に際し、正統の後継者は存在しなかった。最終的に、権力はボリス・ゴドゥノフの手に落ちた。その短い治世は動乱時代(смутное время)の幕開けとなり、この時期にはクレムリでは大貴族らが次々と跡を継いだ。この政治混乱は前代未聞の飢饉と恐慌を伴ったが、文化的な観点から見れば、この混沌とした時代は豊かなものであった。ポーランド・リトアニア共和国からの刺激の下、ロシアは外部世界へと開かれた。

1613年のツァーリ選挙によりミハイル・ロマノフが選出され、長期支配となるロマノフ朝が創始され、1615には政治的不安定は終息した[注釈 1]。17世紀末には、ミハイルの息子「最も平和な(Тишайший)」アレクセイがその跡を継いだ。数多くの改革と、正教古儀式派(「ラスコーリニキ」及びその訳語である「分離派」は蔑称)の出現がその治世の特徴となっている。2番目の妻ナタリヤ・ナルイシキナ(ピョートル1世の母)はヨーロッパの状況に強い関心があり、夫アレクセイに大きな影響を及ぼした。中でも特に西洋の演劇をロシアに導入し、常設劇団を設置した。
18世紀
ロシアの近代化ピョートル1世

ピョートル1世の治世下 (1682-1725) で、ロシアの文化は世俗化が進み、18世紀初頭には徐々にロシア文学・絵画・音楽が形成されてくる。17世紀末には兆候が現れ始めていたが、大きな変化は18世紀初頭、1703年のサンクトペテルブルクの建設と共に具体化する。クンストカメラ

住人のほとんどが文盲という国にあって、ピョートルはロシア初の無料の新聞「ヴェドモスチ」 (「ニュース」の意)を創設した。ラテン文字アルファベットの影響を受け、ロシア語アルファベットの改革によりキリル文字が単純化された[注釈 2]。また、多数の学校や教育機関が創設された。海事アカデミー、工科学校、モスクワ医学校、ロシア科学アカデミーに加え、ロシア初の博物館であるクンストカメラ冬宮殿の近くに創設された。

しかしながら、ピョートルは文学と芸術には深い関心は持たなかった。アカデミーや行政一般の改革に見られるように、ピョートルは結局のところ実務的な人物であった。同様に、キリル文字で印刷された最初期の書物も、軍事技術や手紙の書き方といった実用的な案内書であった。
文学ジャンル

ピョートルの治世下では、検閲がゆるめられた。これは本質的な変化であった。かつては極めて厳しく抑圧されていた「恋愛もの」が事実上「許可」されたのである。これらの歌は様式的な体系やイメージといった口承の伝統と、ヨーロッパ抒情詩の新しい詩法とを取り入れていた。


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