露土戦争とは、16世紀から20世紀にかけてロシアとトルコが衝突した12もの戦争を指す。この両国による衝突はヨーロッパ史の中で最長とされている。1710年から1711年にかけて起きたプルート川の戦いと露土戦争とは分けて扱われるクリミア戦争以外の戦争はオスマン帝国にとってどれも悲惨に終わり、ロシアにとっては18世紀初頭のピョートル1世の近代化政策も相まってロシアが大国として台頭したのを示すことにもなった[1][2][3]。
歴史
対立の始まり(1568年 - 1739年)
ピョートル1世以前1600年頃のクリミア・ハン国周辺
イヴァン4世のカザンの征服
(英語版)によってカザン・ハン国とアストラハン・ハン国が征服された後の1568年に初めての露土戦争が起こった。セリム2世は1569年にアストラハンを征服し、ヴォルガ川下流域からロシア・ツァーリ国を締め出そうとした試みた。しかしオスマン帝国は草原における戦いで惨敗し、更にはアゾフ海で難破するという大惨事に終わった。この戦争によってロシアのヴォルガ川における影響力は増すこととなった。オスマン帝国の封臣であったクリミア・ハン国はロシアに対して拡張を続けていたものの、1572年のモロディの戦い(英語版)に敗れた。次に起こった対立はウクライナの領土を巡って起きた。1654年のロシア・ポーランド戦争でロシアが左岸ウクライナを征服し、1672年のポーランド・オスマン戦争(英語版)でヘーチマンのペトロー・ドロシェーンコの支援をうけてオスマンは右岸ウクライナを征服した[4]。しかし、オスマンのウクライナ征服に協力的だったドローシェンコの親オスマン政策はウクライナ・コサックの不満を買うこととなり、コサックは1674年に新しくイヴァン・サモイェロヴィチ(英語版)をヘーチマンに選ぶこととなった[5]。1676年にロシア軍が右岸ウクライナにあるチヒルィーンを占領すると、ドローシェンコはそのままロシアへと亡命した。1677年にオスマン帝国はチヒルィーンを奪還しようと試みたものの敗北し、1678年に死闘の末奪還に成功したものの、オスマン帝国の北東方面への進出は停滞した。1679年から1680年にかけてロシアはクリミア・タタール人の攻撃を撃退し、1681年にバフチサライ条約を締結し、ドニエプル川でロシア・オスマン間の国境を区切った[6]。
ピョートル1世の時代(英語版)とアゾフ作戦(英語版)を引き起こした[8]。その後、ロシアはスウェーデンとの戦いのため、1699年に神聖同盟がオスマン帝国とカルロヴィッツ条約で休戦したのを期に、1700年にロシアもオスマンとコンスタンティノープル条約で休戦に入った[9]。この和平の結果、ロシアはアゾフを併合し、アゾフ海へのアクセスを得ることに成功した。1696年のピョートル1世によるアゾフ占領
大北方戦争開戦後の1709年のポルタヴァの戦いでロシアはスウェーデンとイヴァン・マゼーパ率いるウクライナ・コサックを破った後、1710年11月20日にスウェーデンのカール12世はオスマン帝国のアフメト3世を説得してオスマンをロシアとの戦いに引き込むことに成功した。これによりスウェーデンとオスマンの両方に戦線を抱えることとなったロシアはオスマンとのプルート川の戦いで敗北を余儀なくされ、アゾフをオスマン帝国へ返還するという不利な条件でオスマンと講和を結んだ[10]。
17世紀後半、オスマン帝国のライバルであったイランのサファヴィー朝は16世紀からの一連のオスマン・ペルシア戦争によって衰退していた。オスマン帝国がダゲスタン、アゼルバイジャン、そして北イランを征服し、それに乗じてロシア帝国はロシア・ペルシャ戦争によって現在のアルメニア、東アナトリア地方の一部そしてイラン西部を征服した。この征服によって得た土地は1724年のコンスタンティノープル条約で確定された。しかし、これによってコーカサスにおいてロシア・オスマンの国境が広がり、更なる軋轢を生むこととなる。1768年に起きた露土戦争後のヨーロッパ地図
1736年、ロシアはクリミア・タタール人によるウクライナ攻撃とクリミア・ハンのコーカサス侵略により露土戦争が開戦した。1736年5月、ロシアはクリミア半島への侵攻を開始し、クリミア・ハンの首都バフチサライを襲撃した。同年6月19日、ロシアはピーター・レイシ将軍の下、アゾフの確保に成功した[11]。1737年7月、ロシアのブルクハルト・クリストフ・フォン・ミュンニヒ将軍の軍勢がオスマンのオチャキフを襲撃し、レイシの軍勢はクリミアに進軍しカラスバザル(英語版)を占領した。しかし、ここでレイシの軍勢は物資不足のためにクリミアからの撤退を余儀なくされた[11]。
1737年、ハプスブルク帝国が露土戦争にロシア側で参戦したが、敗北を重ねた。8月に3か国はネムィーリウで和平交渉を試みるものの、失敗に終わった[12]。1738年は目立った戦闘がなかったが、ロシアはペストの流行により、オチャキフから撤退した。1739年、ミュンニヒの軍勢はドニエプル川を越え、スタヴチャヌィの戦い(英語版)でオスマンを破り[13]、ホーティン(英語版)とヤシを占領した。一方、オーストリアは依然として敗北を重ね、8月21日に単独で講和を結んだ。ロシアもロシア・スウェーデン戦争の準備のため、9月18日にニシュ条約でオスマンと休戦した[11]。