霧島昇
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霧島 昇
1950年
基本情報
出生名坂本 榮吾
生誕1914年6月27日
出身地福島県双葉郡大久村(現在のいわき市
死没 (1984-04-24) 1984年4月24日(69歳没)
学歴東洋音楽学校
職業歌手
活動期間1937年 - 1984年
レーベルコロムビア

霧島 昇(きりしま のぼる、1914年大正3年)6月27日 - 1984年昭和59年)4月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した流行歌手。本名は坂本 榮吾。福島県双葉郡大久村(現在のいわき市)出身。1979年(昭和54年)紫綬褒章受章。
経歴.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "霧島昇" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年11月)

1914年(大正3年)に福島県双葉郡大久村(現在のいわき市大久町)の農家の三男として生まれる。小学校を卒業後上京し、中学に通いながらボクサーを目指すが断念、テノール藤原義江のレコードを聴き、日本の歌曲を流行歌として歌いたいと思い、苦学しながら東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)を卒業。

浅草のレビュー小屋でアルバイトをする傍ら吹き込んだエヂソン・レコード『僕の思い出』がコロムビア文芸部長・松村重武(俳優の松村達雄の実父)の目にとまり、1936年(昭和11年)にコロムビアに入社。同社の看板スターであった松平晃を目標として歌唱技術を磨き、松平にはないテノールの甘い声質と邦楽的技巧表現を生かした。妻・松原操とともに(1939年)

1937年(昭和12年)に『赤城しぐれ』でデビュー。1938年(昭和13年)に松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』を当時大スターだったミス・コロムビア(本名・松原操=後に本名を芸名とする)と共に吹き込み大ヒット。発売1年間で120万枚を超え日本のレコード史上初めてのミリオンセラーとなった。1939年(昭和14年)にミス・コロムビアと結婚。前年に吹き込んだ『旅の夜風』が縁結びとなった。その後も『一杯のコーヒーから』『愛染夜曲』『愛染草紙』『純情二重奏』『誰か故郷を想わざる』『新妻鏡』『目ン無い千鳥』『蘇州夜曲』『相呼ぶ唄』『そうだその意気』『若鷲の唄』『勝利の日まで』などのヒットを飛ばし「コロムビアのドル箱」と呼ばれた。特に誰か故郷を想わざるは初めは全くヒットしなかったが売れないレコードを恤兵慰問品として慰問袋に詰め中国大陸の兵隊に送ったところ、望郷の念に晒された兵士の間で良く歌われ、日本の内地へ逆輸入される形になり国内でも爆発的なヒットとなる。半年で70万枚を超えるビッグヒットとなり、戦後もNHKののど自慢などで良く歌われ大変息の長い傑作となった。作詞の西条八十、作曲の古賀政男、歌った霧島昇の代表作となる。

1943年(昭和18年)、召集令状を受け、大日本帝国海軍横須賀海兵団に入隊。すでに極度の近眼のため徴兵検査で不合格となっていたが、霧島のファンである海兵団の伊藤竹夫大佐が軍医長に命じ、身体検査をパスさせた。海軍では、情報蒐集及び宣伝を主任務とした副長付班に所属した[1]

戦後は並木路子と吹き込んだ『リンゴの唄』を皮切りに『麗人の唄』『三百六十五夜』『旅役者の唄』『胸の振子』『旅の舞姫』『夢去りぬ』『赤い椿の港町』『ギター月夜』『白虎隊』『石狩エレジー』などのヒットを放った。生涯に吹き込んだ数は3千曲を超えた。NHK紅白歌合戦にも5回出場している(詳細は下記参照)が、霧島は無口で真面目な人柄で、極度のあがり症だったという。

おしどり夫婦として知られ、松原との間に4人の子供をもうけた。息子の坂本紀男東京音楽大学主任教授で、『思い出のメロディー』(NHK総合)に出演し、父の代表曲を歌ったことがある。紀男の他に娘が3人おり、三女の大滝てる子は母の芸名を継ぎ「二代目 松原操」として両親の楽曲を歌い継いでいる。

霧島は1984年(昭和59年)4月24日、腎不全のため69歳で死去し、翌日に大田区田園調布一丁目の自宅にて通夜が執り行われ、翌々日に東京都港区長谷寺にて告別式が執り行われた。


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