霧峰林家宅園
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この項目では、台湾台中市霧峰区の邸宅と庭園について説明しています。新北市板橋区にある板橋林家の邸宅と庭園については「林本源園邸」をご覧ください。

霧峰林家宅園
下?宮保第の大花庁
各種表記
繁体字:霧峰林家宅園
簡体字:?峰林家宅?
?音:Wuf?ng Linji? Zhai Yuan
通用?音:Wuf?ng Linji? Jhai Yuan
注音符号:? ?? ??? ??? ?? ??
発音:ウーフォン リンジャー ヂャイユアン
台湾語白話字:B?-hong Lim-ke The?h-hn?g
日本語漢音読み:むほう りんけ たくえん
英文:Wufeng Lin Family Mansion and Garden
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霧峰林家宅園
霧峰林家宮保第園区
所在地 台湾台中市霧峰区本堂里民生路42、28号(林宅)
莱園路91号(莱園)
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯24度03分47.3秒 東経120度42分3.3秒 / 北緯24.063139度 東経120.700917度 / 24.063139; 120.700917座標: 北緯24度03分47.3秒 東経120度42分3.3秒 / 北緯24.063139度 東経120.700917度 / 24.063139; 120.700917
面積11,000平方メートル[1]
建設1864年?
建築様式?南式
管理者林本堂股?有限公司、阿罩霧文化基金会
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}台湾における霧峰林家宅園の位置

霧峰林家宅園(むほうりんけたくえん)は台湾台中市霧峰区にある台湾五大豪族の一つである霧峰林家の邸宅(林家宅第)と庭園(莱園(中国語版)、または林家花園)から構成される建築群。台湾で最大規模の邸宅で現在も霧峰林家の末裔が居住している[2][3]1985年国定古蹟に指定されたものの、1999年921地震で大半が損傷し再建中である。林家末裔の企業である林本堂股?有限公司と財団法人阿罩霧文化基金会が施設を管理運営[4]、中央政府・台中市政府からの補助を得ながら被災した建物の修復を自力で行っている。
林家宅第家系図

林家宅第(りんけたくだい)は大陸から渡来し、台湾府台湾県猫羅堡(中国語版)阿罩霧(現台中市霧峰区)に定住した霧峰林家初代の林石から3代目にあたる林甲寅の子のうち林定邦の下?系と林奠国(中国語版)の頂?系それぞれの邸宅に分かれている。「霧峰林家宮保第園区」として下?系統が見学できるようになっている。
頂?
蓉鏡斎(蓉鏡齋)
[5]

蓉鏡斎(ようきょうさい)は頂?系統では最初に建てられた。当初は草屋型式の建築物で林奠国の住居だった。1887年(光緒13年)林文欽が草屋から蓉鏡斎に改築するときに、西側の入口に孔廟様式の半月池と山門が院落(中庭)と一体になる設計で増築された。その後に開いた私塾の教室として使われた。林家一族専用の学童教育場所で、日本統治時代にも漢文と詩学を教えていた。
景薫楼(景棍黶j[6]

景薫楼(けいくんろう)は1864年から1866年の間に林奠国によって建造された。1867年に手前の第一落内外に護龍と正身(中国語版)、景董門楼が、1883年に林文鳳によって第二落の正身および護龍が完成した。後に林文欽は第三落の護龍と正身、すなわち後楼を1899年に完成させた。1916年南投地震(中国語版)で景董楼の建物群は損傷[7]1930年11月に再建された。このときに日本式の意匠が取り入れられている。
頤圃[8]

頤圃(いほ)は元は穀倉と客室だった和洋中折衷の建物。1906年(明治39年)6代目の林紀堂が遊戯場所として使い始め、を植えた。そして「頤圃」と命名された。1909年から1910年の間、紀堂は2階建ての西洋建築を建て増した。霧峰林家の中では数少ない西洋式となるが、1920年に中国伝統式の護龍・正身様式として改築が始まり1930年に完工した。その後1945年、頤圃の所有者だった鶴年(紀堂の子)は頤圃の地下室の舞池(ダンスホール)を造っている。

霧峰林家宅園
中華民国 文化資産
莱園入口
その他の呼称霧峰宅第、林家花園、霧峰林家宮保第園区
等級国定古跡
文化資産登録
公告時期1985年11月27日
建設年代 同治三年(1864年)
開放年代限定解放(予約式)
観覧費250ニュー台湾ドル
ウェブサイト ⇒http://wufenglins.com.tw/

下?
草?

草?(そうせき)1837年(道光17年)林甲寅が分家したときに茅葺きの三合院(「コ」の字型に囲まれた中国伝統の建築様式)により林宅で最初に建立された。林定邦、林奠国、林四吉と代々居宅として使われ、豪宅・豪邸を意味する「発財?」とも呼ばれていた。初期は林家の神明庁(祭壇スペース)がここにあったが、大部分は改築されてしまっている。

921地震で著しく損傷し、2017年1月にようやく伝統工法による修復工程が始まった。2019年完工予定[9]
宮保第

宮保第(きゅうほだい)は台湾随一の?南式住居。11の開間と第一進から第五進の5進式からなる。1858年林文察がまず中落(第三進)の正身と左右の護龍を建て、文蔡の死後は勲功により賞が与えられ子の林朝棟1883年に第一進、第二進を完成させた。下関条約で台湾が清朝から日本に割譲される直前、1895年に後落の第四進、第五進も急いで完成させた。第四進は1935年に一族により撤去された。
大花庁(大花廰)

大花庁(たいかちょう)は林家の宴席や家族での観劇の場として1890年に着工、1894年に完成した。台湾に僅かしかない福州戯台(ステージ)と観客席がある。霧峰林家宅園の象徴的な建物。
二房?

二房?(にぼうせき)は林文明が2人の子の居住用として1864年から1870年(清朝暦同治3年から9年)に建設した三大落五進式建築。日本統治時代に改築されている。。
将軍府

将軍府(しょうぐんふ、旧称「二十八間」)は1858年に宮保第と同時に建設。屯軍、郷勇が駐屯するための拠点。馬厩(厩舎)、軍隊弁公室、宿営部屋など計28部屋を備えている。

頂? 景薫楼

下? 将軍府

下? 宮保第門庁

下? 宮保第第二進

下? 宮保第第二進

下? 宮保第第三進

下? 宮保第第五進

下? 宮保第大花庁

大花庁の福州戯台

1928年(戊辰年/昭和3年)に書かれた「春秋又八千」の扁額。


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