霞が関ビルディング
[Wikipedia|▼Menu]

霞が関ビルディング


情報
用途事務所、店舗
設計者三井不動産山下設計[1]
施工鹿島三井建設共同企業体[2]
建築主三井不動産、霞会館
構造形式鉄骨造(一部SRC造RC造[3]
敷地面積16,326.40 m² [3]
建築面積3,561.20 m² [3]
延床面積165,692.33 m² [3]
階数地上36階、塔屋3階、地下3階[3]
高さ147m[3]
エレベーター数29基(ほかに人荷用など6基)[3]
駐車台数500台[3]
着工1965年3月18日[3]
竣工1968年4月12日[4]
所在地100-6090
東京都千代田区霞が関三丁目2番5号
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分17秒 東経139度44分50秒 / 北緯35.67139度 東経139.74722度 / 35.67139; 139.74722 (霞が関ビルディング)座標: 北緯35度40分17秒 東経139度44分50秒 / 北緯35.67139度 東経139.74722度 / 35.67139; 139.74722 (霞が関ビルディング)
テンプレートを表示

霞が関ビルディング(かすみがせきビルディング、略称:霞が関ビル)は、東京都千代田区霞が関三丁目にある地上36階、地下3階、地上高147m超高層ビルオフィス・商業複合施設)。所有者は三井不動産。34階に入居する霞会館は現在も敷地の一部と10階、11階部分を所有する。
概要

本邦初の超高層ビル[注 1]で、1970年(昭和45年)3月に世界貿易センタービルディングが竣工するまで2年弱、日本最高度の建築物であった。

複合高層ビルの先駆けとして、36階に展望台[5]、下層階にビル内郵便局と診療所、地上階周囲に公開緑地それぞれを設け、「街」機能を取り込んで再興した。

大型H型鋼を全面採用する柔構造免震、スリット入り耐力壁で異なる震度耐震など地震性能の顕著な向上を図り、「セルフクライミング方式」のタワークレーン、「デットプレート捨型枠工法」の床版工事など新工法を採用するほか工程管理を累積的に改善 [3]して工事費の抑制を図り、163億6300万円[2]とした。

1972年昭和47年)にアポロ計画の有人月面着陸を祝し、本邦で初めてビル照明を制御してウィンドアートで外壁にメッセージを描いた。

空調、給水、情報通信などインフラストラクチャーの更新に周辺再開発を伴う大規模改修を、総額約470億円で1989年、2000年、2009年に実施[6]した。東日本大震災後の2014年(平成26年)に防災対応能力を強化した[7]
沿革霞が関ビルディング遠景

1959年(昭和34年)秋ごろ、東京倶楽部向井忠晴会長(元三井総元方理事長)から当地にあった倶楽部ビル(敷地2000坪)の建て替えについて、三井不動産の江戸英雄社長に協力が求められ、立地条件も良いので、共同ビルを建設することで合意した[8]。だが、着工直前に景気が悪くなり、政府からビル建設ストップ令が出て、着工の1年繰り延べを勧告された[9]。ストップ令が出ている間に、東京倶楽部の有力メンバーで同倶楽部との話の橋渡しをした寺島宗従から、隣接する霞会館(敷地約3000坪)も共同開発を希望している、と伝えられる[9]。江戸が細川護立理事長と徳川宗敬副理事長を訪問して自分の考えを伝えると、「それはいい考えだ。一つよろしく頼む」とそれぞれから賛同を得て霞会館も共同開発に参加[9]し、東京倶楽部と霞会館の敷地統合の話が進んだ[9]。5000坪に旧来の31メートル以下百尺規制でビルを建てると、敷地いっぱいの平面的なビルになり、長い廊下、採光の悪さなどの欠点が出て、都市美観上も好ましくなかった[9]

当時は建築行政で新しい動きが出ていた。旧建築基準法でも周囲に広い道路空き地があれば、31メートル以上のビルを認める特別の緩和制度があり、この特例を利用して、16階のビルを建てることを計画したが[10]河野一郎建設大臣諮問に応えて、1962年(昭和37年)10月、日本建築学会が高さ制限を撤廃し、代わって容積制限制度を導入すべきとの答申を出した[10]。建築手法の上で、従来の剛構造理論にかわって画期的な柔構造が確立されつつあった[10]。当時の三井不動産は超高層ビル建設に傾力し[1]、61年末に柔構造の超高層オフィスビル(30階)と周辺開発の青写真が描かれ、62年6月に霞が関ビル企画室、10月に建設委員会が設けられた[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:84 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef