霊元天皇
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霊元天皇
霊元天皇像(泉涌寺蔵)
第112代天皇
在位期間
1663年3月5日 - 1687年5月2日
寛文3年1月26日 - 貞享4年3月21日
即位礼1663年6月2日(寛文3年4月27日
元号寛文
延宝
天和
貞享
時代江戸時代
征夷大将軍徳川家綱
徳川綱吉
先代後西天皇
次代東山天皇

誕生1654年7月9日承応3年5月25日
崩御1732年9月24日享保17年8月6日
陵所月輪陵
追号霊元院
(霊元天皇)
諱識仁
別称素浄(法名)
仙洞様
称号高貴宮
父親後水尾天皇
母親藤原国子
中宮鷹司房子
子女栄子内親王二条綱平室)
憲子内親王近衛家熙室)
朝仁親王(東山天皇
福子内親王伏見宮妃)
永秀女王
京極宮文仁親王
梅宮
勝子内親王
清宮
寛隆法親王
綱宮
三宮
尭延法親王
台嶺院宮
知光院宮
済深法親王
常磐井宮
作宮
性応法親王
文喜女王
元秀女王
徳宮
力宮
尊賞法親王
文応女王
嘉智宮
留宮
峯宮
有栖川宮職仁親王
吉子内親王
尭恭法親王
八重宮
皇居平安宮(京都御所
親署
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霊元天皇(れいげんてんのう、1654年7月9日承応3年5月25日〉- 1732年9月24日享保17年8月6日[1])は、日本の第112代天皇(在位: 1663年3月5日寛文3年1月26日〉- 1687年5月2日貞享4年3月21日〉)。は識仁(さとひと)。称号は高貴宮(あてのみや)。旧皇族11宮家全ての最近共通祖先である伏見宮邦家親王は来孫にあたる。

「現在の皇室」(うち今上天皇明仁上皇及び生まれながらの皇族[2])と、1947年昭和22年)に皇籍離脱した「旧皇族(生まれながらの皇族でない親王妃・王妃を除く)及びその子孫」の、男系女系を問わない場合の最も近い共通祖先である。

後水尾天皇の第十九皇子。母は内大臣園基音の女で後水尾典侍の藤原国子(新広義門院)。養母は父帝の中宮徳川和子(東福門院)。

譲位後の期間が長いため、仙洞様(せんとうさま)とよばれることが多い。歌人能書家でもある。絵を能くし、作品が複数現存している。
生涯
儲君

承応3年(1654年)9月、長兄の後光明天皇崩御以前にその養嗣子に入り、儲君となる。当時、後光明天皇が余りにも急な死に方をしたために毒殺と噂され、天皇による高貴宮(後の霊元天皇)の養子縁組の意思表示の有無が疑問とされたが、後光明天皇の側近(勧修寺経広三条西実教持明院基定)は天皇が高貴宮の誕生直後より万一に備えて縁組の意向を表明していたと主張している(『宣順公記』承応3年10月17日条)[注釈 1][3]

また、高貴宮の生母が後光明天皇の母方の従妹であることや、当時目ぼしい親王が全て宮家を継承するか寺院に入ってしまったために、唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかったことから、高貴宮が養嗣子として将来の皇位継承に備えるのが当時としては一番妥当な判断であったと考えられる。ただし、まだ生後4か月であった高貴宮が直ちに皇位を継ぐのは無理とも判断された。このため、高貴宮が成人するまでの中継ぎの天皇が立てられることになった。将軍徳川家綱は若年(14歳)であることを理由に関白二条光平の判断に委ねると伝えていたが、一方で幕閣(酒井忠勝松平信綱酒井忠清阿部忠秋)は高貴宮が元服をしたら譲位を受けるという後水尾法皇の方針は了承したものの、その時期を判断するのは徳川将軍家出身である東福門院であることを明言していた。この結果、高松宮を継承していた花町宮良仁親王が1代限りの中継ぎとして皇位を継承することになった(後西天皇[注釈 2][4]

万治元年(1658年)1月、親王宣下を受けた。
禁闕騒動

寛文2年(1662年)12月に元服し、寛文3年(1663年)1月、兄の後西天皇から譲位されて践祚した。なお、この時、朝廷は改元を希望したが幕府がこれを拒否したことが林鵞峯の『改元物語』に記されている[5][注釈 3]

父の後水尾法皇は天皇の即位をきっかけに、清涼殿紫宸殿における仏教祈祷を廃止して禁中での祈祷は内侍所御神楽のみに限定して、国家的な祈祷は上七社(伊勢神宮石清水八幡宮賀茂別雷神社賀茂御祖神社[注釈 4]松尾大社伏見稲荷神社平野神社春日大社)と七大寺(延暦寺園城寺興福寺東大寺東寺仁和寺広隆寺)に固定することにした。これは朝儀再興の一環として中世後期以来の朝廷における祈祷の無秩序状態を解消することを目的としていたが、禁中における仏教色の抑制や将軍家の病気平癒の祈祷が禁中で行われている状況を解消して朝廷権威の回復を目指す意図も含んでおり、法皇が以前から抱いていた構想の実現であったとは言え、後に天皇が目指すことになる朝儀復興と朝廷権威の回復政策の先鞭をつけるものとなった[7]

また、後水尾法皇は天皇の践祚直前に葉室頼業・園基福正親町実豊・東園基賢の4名に新天皇の近侍を命じた。彼らは年寄衆もしくは御側衆と称せられた。彼らは元々法皇の近臣で、特に園と東園は外戚(天皇の母方の伯叔父)であった[8]。また、将軍徳川家綱の了承を得て、幼い天皇に代わって摂政鷹司信房武家伝奏飛鳥井雅章と正親町実豊と共に官位叙任を取り決めるように命じ、両伝奏の辞任後は摂関家九条兼晴近衛基熈が関与した[9]。しかし、朝廷運営の実質的な主導者は、後光明天皇の遺志を後水尾院に伝えた三条西実教であった[10][11]。実教は武家伝奏でもなく、年寄衆や当官の公卿ですらなかったが、幕府の信任や奥向への影響力を背景に朝廷内で大きな権力を振るった[12][13]

寛文8年(1668年)には、天皇が寵愛していた藤大典侍坊城房子と、実教が推薦した女官・田内小路局(西洞院時良の娘[注釈 5])の二人が懐妊した。実教は田内小路局を女御同様の扱いにしようと画策し、後水尾院が一時的に実教ら関係する五卿の出仕を停止する[注釈 6]。霊元天皇は実教を排斥しようと小倉実起を通じて中院通茂に密命を下したが、中院は時節を待つように諫言している[15][16]。結局寛文9年(1669年)2月と3月に生まれた両者の子はいずれも皇女であり、天皇と近習、中院通茂、京都所司代板倉重矩らの間で起請文が取り交わされ収拾が図られた[15][17]。幕府は禁裏の奥向を統制する必要に迫られ、関白鷹司房輔の妹の鷹司房子を入内させることとした[18][19]。しかしこの入内は天皇の本意ではなかったと見られ、8月14日には実教を排斥するよう板倉重矩に要求し、聞き入れなければ譲位すると迫った。これを受けて実教は所司代より蟄居を命じられた[20][21]

江戸幕府は鷹司房子が生んだ皇子が次の皇位を継承することを望んでいた。そのため、天皇と房子の関係が上手く言っておらず、反対に寛文11年(1671年)8月に中納言典侍(小倉実起の娘)が皇子(一宮)を生んだことに神経を尖らせ、武家伝奏の中院通茂・日野弘資と幕府から派遣されていた禁裏附は一宮と翌年源内侍(愛宕福子)が生んだ二宮は事実上皇位継承から外すとする合意を取り決めた[22][23]。加えて、中納言典侍は嫉妬深く、しかも女御である鷹司房子とも不仲であることを理由に後水尾院は出産に先立って中納言典侍を宮中から退出させ、更に彼女の後ろ盾であった先代からの古参女官である大典侍(小倉公根の娘、中納言典侍の大叔母)も鷹司房子や他の女官と対立を深めたために9月に所労を理由に退出することになった[24][25]。しかし、過去に田内小路局と大典侍を推薦した東福門院は彼女たちの退出に憤って所司代からの後任推薦の要請を拒絶し、武家伝奏の中院通茂も新しい典侍が天皇と関係を持つことを恐れて後任の決定自体に消極的であったため、結果的に典侍の数が減少して奥の業務に支障を来し始めた(元々、典侍は4名いたが、先の禁闕騒動で藤大典侍が退出し、今回小倉家の2名が退出したことで高齢の大納言典侍(四辻季継の娘)1名になってしまった)[26][27]。中納言典侍と大典侍の退出後、天皇との関係が改善された鷹司房子が懐妊したため、幕府では皇子誕生を期待したが、寛文13年(1673年)8月に生まれたのは皇女であった[28][29]。その後、房子から今後も皇子が誕生しなかった場合には一宮を皇位継承者とすることになった(『基熙公記』延宝9年9月18日条)[注釈 7][30]。その一方で、典侍の不足問題に所司代も後水尾院も女院も対処しないことに不満を抱いた天皇は、延宝2年(1674年)5月に武家伝奏や禁裏附に無断で松木宗条の娘の宗子を典侍に任じた。しかも、翌年9月には彼女が五宮となる皇子(後の東山天皇)を生んだ[31][32]
親政期

鷹司房子の入内翌年の寛文10年(1669年)からは、霊元天皇が官位叙任を直接取り扱うようになり、即位以来武家伝奏を勤めた飛鳥井雅章と正親町実豊は退任し、中院通茂と日野弘資が後任となった[33][34]。しかし度々天皇や近習の不行跡事件[注釈 8]が相次ぎ、幕府は後水尾法皇や年寄衆に近習の統制を、東福門院に奥向きの統制をそれぞれ求めるようになった。これは年寄衆が「議奏」として朝廷運営の表舞台に出る契機となった[35][36]


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