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震災復興再開発事業(しんさいふっこうさいかいはつじぎょう)とは、大規模地震の甚大な被害により生活基盤や都市機能が失われた地域において、都市機能の回復のみならず被災を契機とした都市再開発も含めて都市基盤整備を行う事業を指す。多くは被害にあった地方自治体(市町村)が主導し、国もしくは都道府県の協力を仰いで数年の事業計画を立案後、被災者や地域住民とのアセスメント等を経て策定され実行に移される。行政と民意との一致を見るまでに極めて多様な開発の展開を経ることが多い。近年では1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の被災地で震災復興再開発事業が行われた。
関東大震災
復興計画の始動と齟齬「後藤新平#関東大震災と世界最大規模の帝都復興計画」および「関東大震災#復興」も参照
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災(関東地震)による被害は甚大なものであり、復興計画は政府主導で行われた。第2次山本内閣の内務大臣に就任した後藤新平は、復興事業について、計画決定から各省所管事務、自治体の権限すべてを集中する「帝都復興省」を設立しようとしたが、各省の強い反対に遭い[1]、東京と横浜における都市計画、都市計画事業の執行など復興の事務を掌る帝都復興院を設立して、いわゆる後藤系官僚を結集させた。その幹部は、総裁後藤新平、副総裁に北海道庁長官の宮尾舜治(計画局・土地整理局・建築局担当)と東京市政調査会専務理事松木幹一郎(土木局・物資供給局・経理局担当)、技監に大阪市の港湾計画や都市計画に従事した直木倫太郎、理事・計画局長には、官職を離れて京都にいた元東京市助役池田宏、理事・土地整理局長に宮尾舜治(後に北海道庁土木部長の稲葉健之助)、理事・建築局長に東京帝国大学教授との兼任で耐震構造研究の佐野利器、理事・土木局長に直木倫太郎(途中辞職、直木の後任にに鉄道技師・陸軍工兵少尉の太田圓三)、理事・物資供給局長に松木幹一郎、経理局長心得に鉄道省経理局会計課長十河信二という陣容で、2人の勅任技師に内務省都市計画課の山田博愛と医学博士岸一太を起用した。しかし後藤は、2人の副総裁人事に際して配下の後藤系官僚4人に交渉しており、こうした「人事上の不謹慎」が後の復興計画に支障を来すこととなる[2]。
後藤は一人で東京復興の基本方針
遷都すべからず
復興費は30億円を要すべし
欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応しい新都を造営せざるべからず
新都市計画実施の為めには、地主に対し断固たる態度を取らざるべからず
を練り上げる。だが事業規模は当時の経済状況をかんがみて縮小され、当初の焦土買い上げという後藤の「大風呂敷」は実現せず、農地整序につかっていた区画整理が展開されることとなった。しかし土地区画整理については、担当の宮尾副総裁が拙速主義を取って反対だったのに対して、松木副総裁とその推薦で復興院に入った者たちは区画整理実行論者であった。この対立において、都市計画官僚の第一人者である池田計画局長が宮尾副総裁に、佐野建築局長が松木副総裁に与すると、後藤総裁の政治力では両者の対立に収拾がつかなくなった。しかも区画整理については後藤自身が研究不足でよく理解しておらず、閣僚には井上準之助大蔵大臣が説明することもあるほどであった[3][4]。さらに復興計画審議のために設置された3つの審議機関のうち帝都復興参与会と帝都復興協議会は無事通過するが、帝都復興審議会では大反対され、特別委員会での大幅縮小で決定、5億円強になり議会提出の運びとなった。そして議会では、普通選挙導入問題で後藤内務大臣と対立する最大野党の立憲政友会が復興予算でも反対に回り、予算の大幅削減と復興院廃止を要求した。山本内閣では、犬養毅逓信大臣と平沼騏一郎司法大臣が解散総選挙を主張、田中義一陸軍大臣と財部彪海軍大臣が解散ないし総辞職を主張したのに対し、所管の後藤内務大臣が政友会への屈服を選択したため、政友会案を受け入れて復興計画は確定された。