電線(でんせん、英語: electrical wire)とは、電気を導くための線のこと[1]。 主たる素材として用いられるのは銅、銅合金、アルミニウムなどの良導体である[3]。 電線は大別すると、電力を輸送する電力用電線、電気信号を伝送する通信ケーブル、モータや発電機などの内部にありコイル状に巻かれていてエネルギー変換に使われる巻線がある[1]。 単線の太さは、アメリカやイギリスでは番号で表示しアメリカではAWG(American Wire Gauge
概要
各国の法律で定められている。 日本の法令では電気設備に関する技術基準を定める省令の第1条の用語の定義において、強電流電気を伝送する「電線」(第1条6号)と、弱電流電気を伝送する「弱電流電線」(第1条11号)に大別しており、それぞれが電気導体のみの裸電線、電気導体を絶縁体で被覆した絶縁電線、および電気導体を絶縁物で被覆した上をさらに保護被覆で保護したケーブル、コードに分けられている[注 1]。一方、有線電気通信設備令 18世紀の初頭に自然哲学者たちは静電気の実験をさかんに行い、その応用を探っていた。そういった人々のひとり、イギリスの王立協会フェローのスティーヴン・グレイは1730年、湿った麻紐を乾いた絹糸で吊るしたものを使って伝導と絶縁の原理を実演して見せた[4]。そしてこの湿った麻紐で数百フィートの距離でも静電荷を伝えられることを発見した[4]。麻紐を乾いた絹糸で吊ると実験がうまくゆくが、金属線で吊ると電気が失われてしまうことも発見し、絶縁体と導体の区別も始まった。湿った麻紐の代わりに金属線を使用すると数マイルの長さの先まで電荷を伝えることもできた。 このシステムを6年後にジョン・ウッズが改良。 1747年にウィリアム・ワトソンが2マイルの長さのワイヤーを設置[4]。この電線は昔のウェストミンスター橋を経由してテムズ川へとつながれ、電線の端には助手が立ち、片方の手でワイヤーの端を持ち、もう片方の手に金属棒を持ちその棒でテムズ川の水に触れた。この回路が電気を通すことを実証するためにワトソンはライデン瓶からの静電気放電を行い、「予想されていた結果を完全に立証した」と報告した。 1795年にスペインのフランシスコ・サルヴァ(Don Francisco Salva
日本の場合
歴史
サルヴァは電信で22種のアルファベットを送信するためにはそれぞれの文字に1本ずつワイヤーが必要だったので計22本のワイヤーが必要となり、ワイヤ1本ずつをピッチでコーティングした紙のカバーで覆ったものを作り、それを束ねた、と説明している。
サルヴァは次のようなことも書いた。ワイヤーケーブルというのは実際には地中のチューブの中に設置することができ、その場合、絶縁をよりしっかりするために樹脂のコートによって一重あるいは二重に覆われなければならない[5]。
この着想はスペインのマドリッドとアランフエスを結ぶ26マイルの電信線となって実現し、電信による通信に成功した[5]
パヴェル・シリングは水中ケーブルのプロトタイプを開発し、それを「subaqueous galvanic conducting cord 水中ガルバニック導電コード」と呼んだ[6]。そしてそれをナポレオン戦争の時期にネヴァ川とセーヌ川で地雷を起爆させるために使った。シリングの水中ケーブルは銅線を絶縁体となるインド産のゴムで覆いニスで仕上げたものだった、と言われている。
アメリカで確認可能な最初期の電線の使用はおそらく1844年にワシントンDCとメリーランド州ボルチモアの間に引かれた商用の電信線である[7]。この最初期のケーブルは鉄製で、製造が難しかった[7]。このころは、鉄製のケーブルの滑りを良くして生産性を向上させるために硫酸銅を使って薄い銅コーティングをほどこしたりしていた[7]。しばらくするうちに銅のほうが鉄よりも電気の伝導性能が良いということが理解されるようになり、電線の素材として鉄に代わって銅が使われるようになった[7]。
そして1913年までに国際電気標準会議(IEC)がIACS(International Annealed Copper Standard 国際焼きなまし銅標準)を確立し、これが100 %の電気伝導率(導電率)の基準となった[7]。
日本
日本における最初の電線製造についてははっきりしない[1]。年代が確認できる電線製造としては1832年(天保3年)に大坂において平川製線(現在は理研電線株式会社)の先祖にあたる人物が銅線をつくっていたことは確認できる[1]。あとは1854年(安政元年)に京都で津田電線の津田幸兵衛が銅線を水車を用いて引き始めたことも確認できる[1]。明治元年前後に作られた国産電信機には細い絹巻線が使われた。
1873年(明治6年)には明治政府主導で工部大学校(現在の東大工学部の前身)が東京に開校し6学科が設置され、そのひとつに電信学科(電気学科)もあり、イギリス人教師(主にウィリアム・エドワード・エアトン)から電気や電線についても講義が行われた。同校の電気工学科第2期生の岩田武夫は工部大学校の学生時代から青函海峡(青森-函館間)のケーブル工事にたずさわった。電気工学科第3期生の中野初子(なかの・はつね) は卒業後、帝国大学の助教のちに教授となり高圧送電を成し遂げた。同学科第3期生の藤岡市助は在学中の1878年に日本初のアーク灯点灯実験に参加し後に「日本の電気、電灯の父」と言われるようになった。同じく第3期生の浅野応輔は卒業直後に工部大学校の教授となり、後にいくつか勤務先を経て1899年(明治32年)には東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)の教授となり、海底ケーブル敷設工事や銅線の絶縁体等の研究に実績を上げた。
1887年(明治20年)、東京電燈は既に完成していた第1電灯局に続き第2電灯局が完成し架空電線による電力の供給を始めた[要出典]。