電波少年的懸賞生活
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電波少年的懸賞生活(でんぱしょうねんてきけんしょうせいかつ)は日本の放送局、日本テレビのTV番組『進ぬ!電波少年』の中で1998年1月25日 - 1999年4月18日まで放送された長期企画。お笑い芸人なすびが「人は懸賞だけで生きていけるか?」をテーマに目標金額を目指し挑んだ。日本での目標額は100万円、韓国での目標額は日本までの航空チケット片道分。目次

1 概要

1.1 電波少年的水戸黄門


2 ルールなど

3 10年ぶりの復活

4 エピソード

5 主な経過、当選

5.1 1998年

5.2 1999年


6 ゲーム作品

7 VHS

8 DVD

9 書籍

10 脚注

11 関連項目

12 外部リンク

概要

1998年1月に『進め!電波少年』が『進ぬ!電波少年』としてリニューアルした際の新企画の一つとしてもちあがった企画。『人は懸賞だけで生きていけるか?』が企画開始時のテーマとして定められた。

企画開始の際に土屋敏男プロデューサーがオーディションと称して若手芸人を集め、くじを引かせる。その中で1本しかない当たりくじを引いたのが当時無名で若手芸人のなすびであった。

なすびは当たりくじをひいたあとそのまま目的も知らされずアイマスク・ヘッドホンを着用させられ移動。ワンルームの部屋へ連れて行かれ、プロデューサーに衣服・下着一式を全て没収されてしまう。まさに裸一貫の状態から総額100万円分当選するまで懸賞だけで生活する、という企画内容を知らされ愕然とするが、あまり深く考えず承諾し、懸賞生活が始まった。

食料系の当選がなかなか出ない(特に2度目の部屋での食料系の当選は当たりにくくなっていた)・途中で最初のが尽いてドライタイプのドッグフードを食べて凌ぐ・紙系(主に当選には関係が無いダイレクトメール)の当選が相次いでしまうなど相当辛い時期もあった。

それから約1年後、なすびは目標額の100万円を達成。挑戦中にゴールしたら何をしたいかという質問に「焼肉を食べたい」と発言していたことからご褒美として韓国に連れて行かれ、焼肉や遊園地を堪能した後、韓国のマンションの一室に連れていかれ、再度服を没収された上で『人は韓国の懸賞だけで生きていけるか?』というテーマの元、韓国での懸賞生活を提案されまた愕然とする。

しかし、韓国での目標額は日本までの航空チケット片道分と聞き承諾、3ヶ月程度で達成し、無事ゴールした。

なお、韓国での企画開始当初は説明でエコノミークラス分がゴールと定められていたが、なすびには飛行機代としか告げていなかったことをいいことにビジネスクラス→ファーストクラスへと徐々にゴール金額が上昇していった。最終的には100万円近くするフランスパリ経由にまでなったが、本人もうすうす気づいていたようでファーストクラス分達成後に連れ出され、日本に帰っていった(なお、ビデオ完結編の未公開映像にて、ホテルで後楽園ホールの収録の放送を見ていたなすびがファーストクラスのゴール金額の目標映像を「そんなにすんの!?」と言い、ゴールに気づいていない時の映像を「そりゃ気付くわけないでしょ!」と言い、そしてスケールアップさせられる時の映像を「何をわけのわかんない事を言ってんだ、コノヤロー!」と言っていた)。

このコーナーは同番組で人気となり、当時の高視聴率に貢献した。また、なすびの書いた「懸賞日記」はベストセラーとなり一躍ブームとなった。

なお土屋は韓国での懸賞生活をなすびに宣告した時に「韓国での懸賞が終わったら、他の国へ行かす事はしない」となすびに告げている。

10年たった2008年、gooが『“あの人は今…”で思い浮かぶ有名人ランキング』 を行ったところ、2位になすびがランクインし、当時の影響の強さを物語っている(なお、1位は桜田淳子、3位以降は小沢健二KANつぶやきシロー[1]
電波少年的水戸黄門

1999年1月から3月のなすびゴール特番『電波少年はだか祭り』まで一時番組を降板していた松本明子は、降板中になすびの役に立とうと何度か韓国のなすびの部屋へ向かっていた。なお、1回目と2回目が失敗した後、テロップで「終了」と流れ、3回目で成功した時は「電波少年的水戸黄門 大成功!」と流れていた。

韓国でのなすびの部屋に突然訪問し、日本の部屋から広末涼子のカレンダーを持ってきた。しかし、広末のファンであるなすびは本当は日本の部屋にある食料系を欲しがっていた為、複雑な表情を浮かべる。その後、松本はハガキを書く作業を手伝うも結局なすびの足手まといでしかなく、さらには横取りとしてキムチを食べようとするもなすびに阻止。そして、なすびから強制的に退場させられて失敗する。

宅配業者に扮して毛皮のパンツを届けるが、全裸生活に慣れてしまっていたなすびはすぐに脱いでしまい(その際、日記で「裸が一番!」とコメントしていた)、またしても失敗。

韓国での最初の当選品であるキムチ以来食料系が全く当たっていないなすびの為、松本は深夜にこっそりベランダに忍び込む。なすびが睡眠中の間、壺に保管していたキムチを補充。翌朝、なすびは突然壺にキムチが詰まっている事に驚いていたが、松本の仕業である事に気が付かなかった為、遂に大成功した。

ルールなど

部屋には多数の懸賞雑誌、応募用はがき、ラジオ、固定電話が用意されており、雑誌やラジオのオープン懸賞
[2]に応募して商品を当てるというもの。チラシや割引券等、金銭的価値の無いものは当選金額にはカウントされなかった。

後述のとおり、なすび本人にはテレビでは放映を行っていない旨を伝えていたため[3]、日本国内ではテレビの視聴は出来ず、テレビが当選しても部屋のアンテナ端子が使えずに日本国内のテレビ放送は視聴出来なかった。

10年ぶりの復活

2009年、ジョージアがスポンサーとなり、小島よしおが挑戦する「電波少年的懸賞生活2009」が、10月8日から10日まで、第2日本テレビでライブ配信された[4]。なお、土屋は懸賞生活終了後なすびに「会いたい」と何度もオファーを出しており、この時も電話出演などを要請していたが全て断られているという。
エピソード

この企画が生み出された背景には、進め!電波少年の末期に
ヒッチハイクなど旅系統の企画が相次ぎ、「電波少年」が旅番組になってしまっているという指摘が視聴者から来たことも影響した。そこでいわば「逆転の発想」として生み出されたのが「(旅行をしない)内なる旅」、「懸賞生活」だった。この辺は2003年3月8日の特番で話されている。

ナレーションは木村匡也。日記の朗読は大神いずみ(当時:日本テレビアナウンサー)。

挑戦者を決めるオーディションには、当時無名だったまちゃまちゃウクレレえいじ号泣などのほか、後に同番組の別企画に登場するRマニア(「電波少年的無人島脱出」、「電波少年的スワンの旅」シリーズ)・伊藤高史(「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」)も参加していた[5]


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