雷電為右衛門
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「雷電為右衛門」はこの項目へ転送されています。テレビ番組については「雷電為右衛門 (テレビ番組)」をご覧ください。
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雷電 爲右エ門

勝川春亭による雷電の画
基礎情報
四股名雷電 爲右エ門(為右衛門)
本名関 太郎吉(爲右衛門・樽吉)
愛称古今十傑
生年月日1767年1月
没年月日1825年4月9日(旧暦2月21日)(59歳没)
出身

信濃国小県郡大石村
(現・長野県東御市
身長197cm
体重172kg
BMI44.32
所属部屋浦風部屋
得意技突っ張り、寄り
成績
現在の番付引退
最高位西大関
生涯戦歴254勝10敗2分14預5無41休
(35場所)
幕内戦歴生涯戦歴と同数
優勝優勝相当成績28回
データ
初土俵1789年7月場所(大坂)
1790年11月場所(江戸・関脇付出)
入幕1790年11月場所(江戸・関脇付出)
引退1811年2月場所
備考
2014年1月8日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

雷電 爲右エ門(為右衛門、らいでん ためえもん、1767年明和4年)1月 - 1825年文政8年)4月9日(旧暦2月21日))は、信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市大石)出身の元大相撲力士。本名は関 太郎吉(せき たろうきち)。いわゆる「信州雷電」[1]

現役生活21年、江戸本場所在籍35場所(大関在位27場所)で、通算黒星が10個、勝率.962の大相撲史上未曾有の最強力士とされている[2]。なお、本文中の日付は全て旧暦である。
来歴
生い立ち

1767年(明和4年)1月、信濃国小県郡大石村字金子(現・長野県東御市)にて関家の長男として誕生、幼名は太郎吉(または樽吉)とされた。幼い頃から体格に恵まれ、14?15歳の頃には既に6尺(約181センチ)に達しており、家事を手伝いながら上野国まで往復していた。

13歳の時、小諸の城下町へ出稼ぎに行き、精米所の柳田藤助の下で奉公した。そこでの仕事ぶりと怪力が評判となり、藤助の伝手で長瀬村の庄屋・上原源吾右衛門(後の2代・為久)が関家へ相撲の修行をさせたいと申し込んできた。上原家では代々が相撲好きで、自前の土俵を構えて20名ほどの少年の世話をしていたほどで、かつてこの地で巡業を行っていた浦風林右エ門が上原家と親交があったこともあり、道場から浦風部屋へスカウトされたこともあったという。

1781年(天明元年)4月、太郎吉は上原道場の門弟となり、相撲の稽古に加えて読み書き、そろばんを習うが、読み書きも四書五経を習うなど、門下生の中でも秀才四人衆の一人に数えられた。源吾右衛門は太郎吉にさらなる期待を寄せ、長昌寺の監峰和尚に太郎吉を向かわせて厳しい修業を行った[3]

1783年(天明3年)になると天明の飢饉が発生し、全国で一揆が発生したため、当時の相撲集団の大きな収入源だった巡業も中止が相次いだ。浦風一行も北陸地方を中心とした巡業を行っていたものの中止となったことから収入源を断たれ、幸運にも凶作の被害を受けなかった上原道場に戻り、力仕事を手伝いながら慰安相撲を行い、翌年春まで逗留した。太郎吉もこの間に関取の稽古を受けて力を付け、浦風から力士転向を勧められたという。
入門

太郎吉は1784年(天明4年)秋に上京するが浦風はすぐに初土俵を踏ませることはせず、まずは伊勢ノ海部屋へ入門させ、当時の角界の第一人者だった谷風梶之助の内弟子として稽古を付け、その素質を存分に開花させる方針を採る。不況による本場所の中止が相次ぐ中で太郎吉は谷風の胸を借りて力を付け、初土俵に備えた[4]

1788年(天明8年)11月、部屋の柏戸勘太夫の紹介で松江藩抱え力士となり、4人扶持で松江藩士となると同時に、信州の両親には金40両が与えられた。四股名は、雲州ゆかりの「雷電」を名乗ることを許された[5]

1789年(寛政元年)、甲斐国鰍沢村(現:山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)において西片屋のみの巡業を行い、雷電は都合で欠席した谷風に代わって大関として7日間の興行を行った。これが記録に残る雷電の初土俵で、この番付のみ「雷電 為五郎」の表記である[6]。巡業終了後はそのまま大坂へ向かい、同年8月場所(大坂相撲)で小結に付出された。本場所での番付登場は初だったが、この場所は全休となる[7]

江戸で行われた同年11月場所は師匠・浦風が勧進元だったが、雷電ら雲州抱えの力士は藩主・松平治郷の指示によって大坂から松江へ向かい、参加出来なかった。同年8月23日に三人扶持で扶持米を下賜され、正式に藩の相撲衆に加えられると、そのまま雲州で稽古、相撲披露、巡業などを行ってそのまま越年した。江戸では谷風が小野川喜三郎と共に吉田司家から横綱免許を授与され、これを機に江戸相撲は最初の相撲黄金時代を迎えることとなる[8]
谷風を追う雷電

雷電は結局、1790年(寛政2年)3月場所を欠場した。2場所連続の全休となり、藩主から江戸勤番の命が下ったために4月20日に江戸へ入り、5月24日から泉岳寺の花相撲に出場した。続いて参加した四谷での興行はさらに小規模な「稽古相撲」扱いで、寺社奉行の見分も不要という新しい形態での相撲だったという。その直後に病に倒れ、7月下旬から開始された北陸巡業には遅れて参加するが、柏崎善光寺熊谷鴻巣と回る合間を縫って帰郷している[9]。11月場所においてようやく江戸相撲における初土俵を踏み、雷電は谷風の後を追うように、柏戸を上回って関脇に付出されると、10日間の興行で8勝2預の優勝相当成績を挙げる。8日目の小野川喜三郎戦では雷電の寄り倒しと小野川の打っ棄りを巡って大物言いとなり、勝負検査役はとした。雷電は自身が勝っていたとの思いが強かったらしく、『諸国相撲控(通称・雷電日記)』ではこの日の結果について、「小野川も投げ候」と記している。

江戸相撲でいきなり優勝相当成績を挙げた雷電は、1791年(寛政3年)に木更津での興行を終えて江戸へ戻り、同年4月場所に出場する。初日から3連勝と危なげなく白星を並べたところに上覧相撲によって本場所開催が中断される。当時の上覧相撲は本場所とは別物として考えられており、現在の天覧相撲のように本場所の途中(8日目)に設定されているわけではなかった。


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