零式水上偵察機
[Wikipedia|▼Menu]

愛知 E13A 零式水上偵察機

飛行中の零式水上偵察機

用途:偵察機

分類:水上機

製造者:愛知航空機

運用者: 大日本帝国日本海軍

退役:1945年
表示

零式水上偵察機(れいしきすいじょうていさつき)は、十二試三座水上偵察機として愛知航空機により開発され、1940年(昭和15年)12月に日本海軍兵器採用された水上偵察機。略称として零式水偵、零水とも呼ばれ、零式小型水上偵察機との違いを明確にするため零式三座水上偵察機とも表記される。略符号はE13A。連合国が名づけたコードネームはJake(ジェーク)。目次

1 開発

2 運用

3 生産

4 諸元

5 現存する機体

6 登場作品

6.1 ゲーム


7 脚注

8 関連項目

9 外部リンク

開発

1937年(昭和12年)に日本海軍は、九四式水上偵察機の後継機、十二試三座水上偵察機の開発を川西航空機製作所と愛知航空機に指示した。海軍からの要求は、艦載機としても水上基地からでも運用できる長距離偵察機ということで、最大速度は370km/hとなっていた。試作機の納期は1938年(昭和13年)9月までとされていたが、愛知航空機では他の機体の試作・改良で手一杯で製作する余力がなく、納期に間に合わず失格とされた。しかし、愛知航空機では研究資料とするために製作を続行し、1939年(昭和14年)1月に1号機が完成した。

機体は金属製(主翼の翼端は製)で、低翼単葉の双浮舟式の水上機で、主翼は折りたたみが可能である。フラップは単純フラップとなっている。エンジンの出力、武装とも九四水偵よりも強力になっていたが、特に胴体に爆弾倉を設けており、小型の爆弾ならば2発が搭載可能。

1939年6月に川西製の機体が事故で失われたため、急遽、海軍では愛知製の機体を受領し、横須賀で試験を行った。その結果、飛行性能優秀ということで採用内定となり、1940年(昭和15年)12月に正式採用された。
運用 パプアニューギニアカビエン沖に沈んだ機体

日本海軍は初期の空母戦艦巡洋艦潜水艦水上偵察機を搭載し、偵察の要として運用すべく準備を重ねていた。その仕上げとも言えるのが本機の配備であり、1941年(昭和16年)から艦船基地への配備が本格化した。第二次世界大戦太平洋戦争)開戦時には海軍の主力艦船には本機が搭載されており、艦隊外地の基地の目として盛んに活動した。

大戦の序盤はそれなりの成果を収めていたが、1943年(昭和18年)以降は水上機特有の速度不足・加速力不足が主因で、空母の艦載機迎撃戦闘機が充実した敵方の艦隊や基地の情報を詳細に入手することは困難になってきた。このため、偵察任務は徐々に艦上機に移行していくこととなる。日本海軍では、ミッドウェー海戦で偵察機仕様に改造した2機の十三試艦上爆撃機(のちに正式採用されて二式艦上偵察機となる)を運用したのをはじめ、マリアナ沖海戦では第六〇一航空隊が17機もの二式艦偵を空母に搭載し、使用していた(発艦に難のある小型空母では九七式艦上攻撃機を使用)。

さらに、艦上偵察機として「彩雲」も開発された。搭載機数に限りがある中で攻撃力を最大化したい空母において、偵察専門の艦上機というのは他に類をみないものである。しかし、空母に随伴する戦艦や巡洋艦から本機を運用することで艦上偵察機の負担を減らしたり、三座であるため夜間偵察機として使用できることから、大戦後半も水上偵察機の出番は減らず、本機も終戦まで船団護衛対潜哨戒任務において主力機として、日本本土から外地の離島の基地まで広い範囲で働いた(例として、1943年10月11日宗谷海峡を逃走中の潜水艦ワフーにとどめを刺したのは本機の爆弾であった)。

また、少数機が当時友好国だったタイへ供与されている。第二次世界大戦終戦時には約200機が残存していたが、この内約4分の1が外地に残っていた機体であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef