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雲仙岳
雲仙普賢岳を東から望む(2007年)
標高1,483 m
所在地長崎県島原市、南島原市、雲仙市
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度45分41秒 東経130度17分56秒 / 北緯32.76139度 東経130.29889度 / 32.76139; 130.29889
雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県の島原半島中央部にそびえる火山である。半島西方の橘湾を中心とする千々石カルデラの外輪に位置する。広義では、火山学上の「雲仙火山」と同義で、最高峰の平成新山をはじめ、三岳(三峰)とも呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳、五峰(五岳)とも呼ばれる野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山を含め、東の眉山から西の猿葉山まで、総計20以上の山々から構成される。雲仙岳の形の複雑さは、三岳五峰(三峰五岳)、八葉、二十四峰、三十六峰などさまざまな数字で表現されたが、観光上のキャッチフレーズとして「三峰五岳の雲仙岳」が多用されるようになった結果、狭義として八つの山(ときには三つの山)のみを指す用法も生まれた。歴史的には海上にそびえる山並み全体を指す名称である。行政区分では島原市、南島原市、雲仙市にまたがる。しばしば、旧最高峰の普賢岳(雲仙普賢岳)の名称と混同して用いられる。
現代でも火山活動が続いており、1991年5月から1996年5月に9432回の火砕流が観測された。特に1991年6月に発生した大規模火砕流では43人、1993年6月の火砕流でも1人が死亡し、慰霊活動が行われている。被災家屋は251棟、経済被害は約2300億円に達した[1]。 最高峰の平成新山(1,483m)を中心に、周囲に、普賢岳(1,359m)、国見岳(1,347m)、妙見岳(1,333m)、野岳(1,142m)、九千部岳(1,062m)、矢岳(943m)が存在する。普賢岳や平成新山の溶岩は千々石カルデラ由来である。つまり、小浜温泉沖合いの橘湾地下のマグマだまりから供給されている[2]。主峰は普賢岳(ふげんだけ)だが、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけての火山活動で平成新山ができ、こちらの方が標高が高くなった。また平成新山は長崎県の最高峰でもある。 火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている[3]。 古くは『肥前国風土記』で「高来峰」と呼ばれているのがこの山であり、温泉についての記述がある。雲仙はもとは「温泉」の表記で「うんぜん」と読んでいたが、国立公園指定の際に現在の表記に改められた。大乗院満明寺は行基が大宝元年(701年)に開いたと伝えられている。この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた。また、行基は同時に四面宮(温泉神社)を開いたといわれている。祭神は、『古事記』にて筑紫島をあらわす一身四面の神である。この神社は上古には温泉神社、中古には四面宮と称されていたが、1869年(明治2年)の神社改正[要検証 – ノート]により筑紫国魂神社と改称され、1915年(大正4年)の県社昇格に際して温泉神社に戻した。島原半島中に10数の分社がある。 雲仙温泉としては、1653年(承応2年)に加藤善右衛門が開湯した延暦湯が始まりといわれている。水蒸気が噴出して硫化水素の臭いがたちこめる光景が「地獄」と形容される。キリシタン弾圧の舞台にもなった[4]。天気のいい日には見通しのいい場所でから、西彼杵半島東岸および長崎半島東岸、佐賀県南部、福岡県筑後地方、熊本県西部などを眺めることができる。標高が高いことから通信の要衝でもある。雲仙野岳には、長崎県防災行政無線や警察庁などの中継所が設置されている。 普賢岳の山頂付近には、太平洋戦争中に陸軍のレーダー基地が建設され、100名ほどが駐留していた[5]。2021年現在、山頂付近は国立公園の特別保護地区に指定されておりたき火などが禁止されている[6]。 活動史は、前期、後期の二つに大別出来る。活動は約50万年前に始まったとされる。前期には、火砕流やマグマ水蒸気爆発を中心とする、爆発的な噴火を行っていたと考えられる。最初に高岳、絹笠岳、矢岳などが形成されて九干部岳火丘群となった。やがて噴火活動は北側に移動し、九干部岳や吾妻岳が形成された。その後、噴火活動は、溶岩ドームや厚い溶岩流を中心とする活動に移行した。10万年前より、野岳、妙見岳、普賢岳の順で火山活動が推移し、地形が形成されていった。
概要
火山活動史
有史以前
有史以後
1663年から1664年の噴火1663年12月より普賢岳の北北東の900mに位置する飯洞岩(はんどういわ)から溶岩が流出し[7]、全長1kmにわたって森林を覆った。翌年春には普賢岳南東山腹600mの低地、九十九(つくも)島火口より出水があり[7]、安徳川原へ流れ込み氾濫が起きる[7]。