雪舟
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この項目では、画家の雪舟(せっしゅう)について説明しています。遊具の雪舟(そり)については「ソリ」をご覧ください。
『絹本著色雪舟自画像(模本)』(重要文化財[注釈 1]藤田美術館『秋冬山水図』のうち秋景(東京国立博物館

雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年[2] - 永正3年(1506年8月8日(諸説あり)[2])は、日本室町時代に活躍した水墨画家禅僧(画僧)[2]。「雪舟」はで、は「等楊(とうよう)」と称した。

備中国(現在の岡山県総社市)に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国()に渡り、李在より中国の画法を学んだ。

現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。

作品のうち『天橋立図』『秋冬山水画』『四季山水図巻』『破墨山水図』『慧可断臂図』『山水図』の6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けているといえる。この他に『花鳥図屏風』など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。弟子に周徳、等悦、秋月、宗淵、等春らがいる。
生涯生誕地に立つ碑文(岡山県総社市)雲谷庵(復元、2005年5月撮影)『天橋立図』(京都国立博物館

応永27年(1420年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・文芸の分野を担っていた。10歳頃に京都相国寺へ移り、春林周藤に師事して禅宗の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。禅にも絵にも、当時最高の師を持ったということは、雪舟もまたよほどの人物だったに違いない。ことに水墨画は禅とともに起こった芸術である。描くことはまた、禅の修行でもあった。

享徳3年(1454年)頃、周防国に移り、守護大名大内教弘の庇護を受け[2]、画室雲谷庵(山口県山口市天花〈てんげ〉)を構える[注釈 2]寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。

長禄元年(1457年)、拙宗等楊から改号したと推定されている[2]。拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はないが、拙宗と雪舟の活躍時期が重ならないこと、両者の溌墨系山水画を詳細に比較検討した結果、共に飛躍がありつつも共通性が認められることから、同一人物説が定説となりつつある[注釈 3]

拙宗の真筆とされる作品は十数点が現存している。拙宗が雪舟の若い頃の号とすると、のちに風景画が多くなるのに対して、渡明前は仏画や人物画が多い[7][8]。「拙宗」期を含むと、雪舟の現存作品数は約50点とされる[9]

応仁元年(1467年)に遣明船へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究した。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る(以後、雪舟の作品の署名には度々この称号を書き入れている)。更に北京に赴き、政府の建物に壁画を書いて、大いに評判になったという。弟子に送った『破墨山水図』にある文面に、「明の画壇に見るべきものはなく、日本の詩集文や叙説を再認識した」と書かれている様に、明の時代の画家よりも夏珪李唐等の宋・元時代の画家に興味を持ち、模写して勉強した(『彷夏珪山水図』『彷李唐牧牛図』はいずれも重要文化財)。中国大陸の自然は、雪舟に深く影響した。「風景こそ最大の師」と悟った様に、彼は帰路、揚子江を下りつつ貪欲に各地の風景を写生した(雪舟の書いた風景画の景観は、中国の各地に現代も残っている)。

文明元年(1469年)に帰国し、周防国のほか豊後国石見国で創作活動を行う。文明13年(1481年)秋から美濃国へ旅行。文亀元年(1501年)頃には、丹後国天橋立に赴き『天橋立図』を残している[10]。日本美術史を研究する学習院大学教授の島尾新は、雪舟が各地を訪れたのは単なる漂泊ではなく、足利義尹を擁しての上洛など大内氏の軍事・外交政策のための地理調査と関連があると推測している[2]。『天橋立図』は天橋立そのものだけでなく周辺の寺社が詳細に描かれている。このため同地にある籠神社別当智海や、丹後の支配者で大内氏と連携していた一色義直の依頼で制作された可能性が指摘されている[11]

没年は確実な記録はないが永正3年(1506年)に87歳で没したとするものが多い。文亀2年(1502年)とする説もある[2]。命日も8月8日(『古画備考』)、9月16日(雪舟伝)など諸説あり、最期の地は石見国益田の大喜庵とされ、雪舟と親交があったとされる益田兼堯の子孫・益田牛庵(元祥)執筆の『牛庵一代御奉公之覚書』には次の記述がある[12]

「雪舟(中略)極老候而石見之益田へ罷り越され彼地落命候(後略)」
(雪舟…老い極まり石見益田へ参り彼の地で落命する…)。

雪舟の生涯には謎とされる部分が多い。墓所と伝わる場所も複数箇所ある。
涙で描いた鼠

雪舟についてこんな伝説が残っている。

宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んでを読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱に縛りつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。

これは雪舟について最もよく知られた話である。但し初出は江戸時代狩野永納が編纂した『本朝画史』(1693年刊)で、後年の創作という説もある。
神格化

雪舟の神格化は江戸時代から始まった。当時画壇を支配していた狩野派が雪舟を師と仰ぎ、ゆえに諸大名が雪舟の作品を求めたからであるとされる。そのために以後「雪舟作」と号する作品が急激に増えたと言われる。雪舟の人気を反映して、『祇園祭礼信仰記』[注釈 4]のような作品が上演された。日本文化の一つを生んだ雪舟は、今や日本を代表する歴史人物の一人となっている。
主要作品『秋冬山水図』(冬景図)(東京国立博物館『山水図』牧松周省、了庵桂悟賛(個人蔵)

雪舟作品の画像については以下のページも参照。山口県立美術館岡山県立美術館香雪美術館出光美術館益田市立雪舟の郷記念館
国宝

『秋冬山水図』2幅、各47.7cm×30.2cm(
東京国立博物館[14]


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