雪国
訳題Snow Country
作者川端康成
国 日本
言語日本語
ジャンル長編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出「夕景色の鏡」-『文藝春秋』1935年1月号
「白い朝の鏡」-『改造』1935年1月号
「物語」-『日本評論』1935年11月号
「徒労」-『日本評論』1935年12月号
「萱の花」-『中央公論』1936年8月号
「火の枕」-『文藝春秋』1936年10月号
「手毬歌」-『改造』1937年5月号
「雪中火事」-『公論
『雪国』(ゆきぐに)は、川端康成の長編小説である。名作として国内外で名高い。雪国を訪れた男が、温泉町でひたむきに生きる女たちの諸相、ゆらめき、定めない命の各瞬間の純粋を見つめる物語[1]。愛し生きる女の情熱の美しく哀しい徒労が、男の虚無に研ぎ澄まされた鏡のような心理の抒情に映されながら、美的に抽出されて描かれている[1]。
1935年(昭和10年)から各雑誌に断続的に断章が書きつがれ、初版単行本刊行時の1937年(昭和12年)7月に文芸懇話会賞を受賞した。その後も約13年の歳月が傾けられて最終的な完成に至った[2][3]。 『雪国』は、最初から起承転結を持つ長編としての構想がまとめられていたわけではなく、以下のように複数の雑誌に断続的に各章が連作として書き継がれた[3]。 以上の断章をまとめ、書き下ろしの新稿を加えた単行本『雪国』は、1937年(昭和12年)6月12日に創元社より刊行され、7月に第3回文芸懇話会賞を受賞した[4][注釈 1]。さらに続篇として以下の断章が各誌に掲載された。
発表経過
1935年(昭和10年)
「夕景色の鏡」 - 『文藝春秋』1月号
「白い朝の鏡」 - 『改造』1月号
「物語」 - 『日本評論』11月号
「徒労」 - 『日本評論』12月号
1936年(昭和11年)
「萱の花」 - 『中央公論』8月号
「火の枕」 - 『文藝春秋』10月号
1937年(昭和12年)
「手毬歌」 - 『改造』5月号
1940年(昭和15年)
「雪中火事」 - 『公論
1941年(昭和16年)
「天の河」 - 『文藝春秋』8月号
1946年(昭和21年)
「雪国抄」(「雪中火事」の改稿) - 『暁鐘』5月号
1947年(昭和22年)
「続雪国」(「天の河」の改稿) - 『小説新潮』10月号
以上の続篇を加えて最終的な完成作となり、「続雪国」まで収録した完結本『雪国』は、「あとがき」を付して翌1948年(昭和23年)12月25日に創元社より刊行された[3][4]。
その後、新潮社より1949年(昭和24年)6月刊行の『川端康成全集第6巻』(全16巻本)や、1960年(昭和35年)6月刊行の『川端康成全集第5巻』(全12巻本)に収録の際と、さらに1971年(昭和46年)8月に牧羊社より『定本雪国』刊行の際にも、川端本人による斧鉞が加えられた[3]。また川端死後の1972年(昭和47年)12月には、原稿復刻版『雪国抄』がほるぷ出版より刊行された[4]。
本人の斧鉞後の定稿は、1980年(昭和55年)4月刊行の『川端康成全集第10巻』(全37巻本)に収録され、前述に並列した斧鉞前のプレ・オリジナル版は同年10月刊行の『川端康成全集第24巻』(全37巻本)に収録されている[3]。
エドワード・サイデンステッカー訳(英題:Snow Country)をはじめ、ドイツ(独題:Schneeland)、イタリア(伊題:Il paese delle nevi)、中国(中題:雪国、雪郷)、フランス(仏題:Pays de neige)など、世界各国語の翻訳版が出版されている[7]。
作品背景・モデル松栄。駒子のモデルとなった女性
『雪国』の主な舞台は、上越国境の清水トンネルを抜けた湯沢温泉であるが、この作品も『伊豆の踊子』同様に、川端の旅の出会いから生まれたもので[2]、雪中の火事も実際に起ったことだと川端は語っている[8]。川端は作品内で故意に地名を隠しているが、1934年(昭和9年)6月13日より1937年(昭和12年)まで新潟県湯沢町の高半旅館(現:雪国の宿 高半)に逗留していたことを随筆『「雪国」の旅』で述べている[9]。
その時出会ったのが駒子のモデルとなる芸者・松栄(本名は丸山キクで、のちに小高キク)である[10][11]。小高キクは、1916年(大正5年)に新潟県三条市の貧しい農家の7人姉弟の長女として生まれ、1926年(大正15年)、数え年11歳で三条を離れて、長岡の芸者置屋に奉公に出された女性である[12][10]。彼女は芸者引退後、故郷に戻り結婚し、夫と和服仕立業を営み、1999年(平成11年)1月31日、三条市の病院で胆管癌のため死去した[13]。なお川端は、主人公の島村については、〈島村は私ではありません。男としての存在ですらないやうで、ただ駒子をうつす鏡のやうなもの、でせうか〉と述べている[14]。
1934年(昭和9年)の晩秋の頃、高半旅館に宿泊していた川端を見かけた宿の次男・高橋有恒(当時17歳)によると、川端はよく帳場の囲炉裏端に座り、父(宿の主人)・高橋半左衛門や母・ヨキと話しこみ、芸者たちのことや、その制度、温泉、豪雪、風物、習慣、植物などのことを訊ねていたという[10]。有恒の兄・正夫は、後に旅館を継いで高橋半左衛門を襲名するが、正夫は当時、京都帝国大学から転学し東京帝国大学文学部の学生であったため、川端と親しんでいたという[10]。
川端が滞在した高半旅館は建替えられているが、雪国を執筆したという「かすみの間」は保存されている[15][16][注釈 2]。また、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」にモデルの芸者が住んでいた部屋を再現した「駒子の部屋」があり、湯沢温泉には、小説の冒頭文が刻まれた文学碑が建てられている[2]。なお、村松友視の『「雪国」あそび』には、モデルの松栄について言及されている[18]。
『雪国』というタイトルが決定したのは、最初の単行本刊行時で、有名な冒頭文の書き出しに「雪国」という言葉が現れるのもこの時点である[2]。