雨月物語
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この項目では、江戸時代の文学作品について説明しています。これを原作とする映画については「雨月物語 (映画)」をご覧ください。
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見返「上田秋成大人編輯/雨月物語/全部/三冊/浪花書肆 文榮堂蔵版」

『雨月物語』(うげつものがたり)は、上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本(よみほん)作品。

5巻5冊。明和5年(1768年)序、安永5年(1776年)刊。日本・中国の古典から脱化した怪異小説9篇から成る。近世日本文学の代表作で、現代でも引用されることが多い(→#派生作品)。
概要

『雨月物語』の成立については諸説あるが、明和5年から安永5年の間に書かれ(→#出版経緯)、安永5年4月(1776年)に、京都寺町通の梅村判兵衛と大坂高麗橋筋の野村長兵衛の合同で出版された。全5巻、9篇の構成であった。挿絵は、桂宗信が描いた。桂は、当作品へ大いに影響を与えた都賀庭鐘『繁野話』の挿絵も担当している。『雨月物語』各篇に1枚ずつ、中篇の「蛇性の婬」だけには2枚の絵が載っている。

『雨月物語』は「剪枝畸人」名義で刊行され、作者は上田秋成であろう、とわかってきたのは彼の死後のことである[2]。また、当時の売行きはごく普通のものであり、今日のように人気、評価に不動の地位を確立していた、というわけではないことが推測されている[1]

文学史上の位置づけとしては、『雨月物語』は建部綾足の『西山物語』などと同じ、元禄期化政期の間、安永・天明文化期の、流行が浮世草子から転換しつつあった初期読本にあたる。後世には、山東京伝曲亭馬琴へ強い影響を与えた[3]

内容は中国の白話小説翻案によるところが大きい。当時の古典を踏まえつつ和文調を交えた流麗な文を編み、日本の要素や独自の部分を混ぜた、著者の思想が加えられている。
各篇

各篇の並び順は以下の通りであるが、これは深い考えがあってのものだ、という説を高田衛は提唱している。つまり、前の作品の一部要素が、次の作品の内容と結びついていて、円環をなしている、ということである[4]

白峯(しらみね) - 西行讃岐国にある在俗時代の主崇徳院の陵墓、白峯陵に参拝したおり、崇徳上皇の亡霊と対面し、論争する。巻之一収録。(→#白峯

菊花の約(きつかのちぎり) - 契りを交わした(衆道)義兄弟との再会の約束を守るため、約束の日の夜、自刃した男が幽霊となって現れる。巻之二収録。(→#菊花の約

浅茅が宿(あさぢがやど) - 戦乱の世、一旗挙げるため妻と別れて故郷を立ち京に行った男が、7年後に幽霊となった妻と再会する。巻之二収録。(→#浅茅が宿

夢応の鯉魚(むおうのりぎよ) - 昏睡状態にある僧侶が夢の中で鯉になって泳ぎまわる。巻之三収録。(→#夢応の鯉魚

仏法僧(ぶつぽふそう) - 旅の親子が高野山で、怨霊となった豊臣秀次の一行の宴に遭い、怖い思いをする。巻之三収録。(→#仏法僧

吉備津の釜(きびつのかま) - 色好みの夫に浮気され、裏切られた妻が、夫を祟り殺す。巻之三収録。(→#吉備津の釜

蛇性の婬(じやせいのいん) - 男が蛇の化身である女につきまとわれるが、最後は道成寺の僧侶に退治される。巻之四収録。(→#蛇性の婬

青頭巾(あをづきん) - 稚児に迷い鬼と化した僧侶を、旅の僧である快庵禅師が解脱へと導く。巻之五収録。(→#青頭巾

貧福論(ひんぷくろん) - 金を大事にする武士、岡左内の寝床に金銭の精が小人の翁となって現れ、金とそれを使う主人との関係を説く。巻之五収録。(→#貧福論

出版経緯

上田秋成は、明和3年(1766年)に処女作である『諸道聴耳世間猿』(『諸道聴耳世間狙』)を、明和4年に浮世草子の『世間妾形気』を書いた。そして、『雨月物語』の序には「明和戊子晩春」とあり、明和5年晩春に『雨月物語』の執筆が終わっていたことになる。しかし実際に『雨月物語』が刊行されたのは、その8年後の安永5年(1776年)のことであった。

ここに、『雨月物語』成立の謎がある。つまり、『雨月物語』は本当に序にあるように明和5年に成立したのだろうか、刊行までの8年という長い間には、どういう意味があるのだろうか、というものである。山口剛の研究以来、重友毅中村幸彦と、明和5年を一応の脱稿、それからの8年間は『雨月物語』の推敲に費やされた、という見方が強かった。それまでの『世間猿』『妾形気』の2作品は浮世草子に属していた。そして『妾形気』の末尾の近刊予告を見ると、『諸国廻船便』と『西行はなし 歌枕染風呂敷』の2作品が並べられており、まだ秋成に浮世草子を書く気、予定があったことが見えることもこの論を裏付けている。

しかし、この説の裏側には、当時浮世草子が軽く見られる風潮があったことを、高田衛などは指摘している。そして、大体の成立は序の通りでよいのではないか、という説を提唱している。つまり、『世間猿』と『妾形気』の浮世草子2作品と『雨月物語』という読本作品は連続したもの、という考えである。また、巻之四「蛇性の婬」には内容に、日付の日数の計算の合わないことが知られていたが、これに対しての大輪靖宏の指摘[5]がある。もし、序に書かれた年の前年の明和4年に「蛇性の婬」が書かれたとする場合、序の年の前年、閏9月のあった明和4年を念頭に置くとうまく計算が合う。

この説の場合、脱稿からの8年間『雨月物語』をめぐって何がおこなわれていたのかはわからないが、明和8年と安永元年には、それぞれ野村長兵衛と梅村判兵衛という別々の版元から『雨月物語』の近刊予告が出ていたり、明和8年には秋成の家業の嶋屋が火事で焼けたことなどを契機に、都賀庭鐘から医学を学んだり、医院を開業したりしていた。坂東健雄は、高田説が通説であるとしながらも、どちらの説も決め手に欠けるとし、やはり出版にいたる8年間に推敲が行われた可能性は否定できないことを指摘した[6]
都賀庭鐘『英草子』『繁野話』からの影響

秋成が処女作の浮世草子『諸道聴耳世間猿』を刊行した明和3年、都賀庭鐘の『繁野話』が世に出た。この作品とその前作の『英草子』は読本の祖というべきもので、それまで流行していた浮世草子とは違って、原典(白話小説)のはっきりとわかる、中国趣味を前面に出したものだった。当時は井原西鶴から始まった浮世草子の新鮮味がなくなり、落ち込みが出てきたころである。秋成はまだ執筆、刊行予定のあった浮世草子を捨て、庭鐘の作品を受けて『雨月物語』を書き始めたのだった。

『雨月物語』執筆の時期は上記のようにはっきりしないが、その前後に秋成は庭鐘から医学を学んでおり、その後は医者として生きて行くこととなる。このとき、どれだけ庭鐘から医学以外のこと(例えば白話小説のことなど)を直接学んだかはよくわかっていないが、その影響を受けていることは『雨月物語』自体が証拠となろう。

具体的にいえば、まず体裁が5巻9篇、見開きの挿絵1枚の短篇が8篇、挿絵1枚の中篇(「蛇性の婬」)が1篇であるところは、まったく庭鐘の読本作品と同じである。体裁で違うところといえば題名の付け方で、庭鐘が『英草子』第一篇「後醍醐帝三たび藤房の諫を折くこと話」、あるいは『繁野話』第一篇「雲魂雲情を語つて久しきを誓ふ話」のように長く付けるのに対し、『雨月物語』の方は第一篇「白峯」や第二篇「菊花の約」のようにすっきりとした題が付いている。内容面でいうと、読本の形式をとり、場面場面ではなく話の運びや登場人物の人間性に重点を置いたものにしたこと、知識層を読者に想定し、思想や歴史観、作中での議論を盛り込んだことなどが挙げられる。
師・加藤美樹

「白峯」での西行など、『雨月物語』を書く秋成の思想の背景に、国学者賀茂真淵からの影響が見られる。それまでも独学で契沖のことを学んでいた秋成は、やはり『雨月物語』執筆の前後に国学者加藤美樹(姓は藤原、河津、名は宇万伎とも)に入門している。美樹は真淵の高弟であった。それまでも知的な「浮浪子」(なまけ者などの意味の上方語)であった秋成だが、美樹からの手ほどきからは、思想的深化、古典学の体系だった智識の整理、という重大な影響を受けた。影響は『雨月物語』にも反映されたと考えてよいだろう。

『雨月物語』の文体からもこのことは察せられる。庭鐘の作品は和漢混淆文でできているといってもよいが、漢文調の強いものであった。一方、『雨月物語』を見ると、上手く原典の白話小説の調子を翻訳し、漢文調と和文調の織り交ざった独自な文体となっている。師・美樹の学問がこの文体の礎となったことは、うなづける話である[7]
『雨月物語』という名の由来

『雨月物語』という題は、どこからきたのだろうか。秋成自身の序文には、書下すと「雨は霽れ月朦朧の夜、窓下に編成し、以て梓氏に?ふ。


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