雨宮処凛
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雨宮 処凛
(あまみや かりん)
2023年撮影
誕生 (1975-01-27) 1975年1月27日(49歳)
日本 北海道滝川市
職業作家政治活動家
言語日本語
国籍 日本
活動期間2000年 - 現在
ジャンル小説ノンフィクション
主題随筆評論報道
代表作『生きさせろ! 難民化する若者たち』(2007年)
主な受賞歴日本ジャーナリスト会議賞(2007年)
デビュー作『生き地獄天国』(2000年)
影響を受けたもの

鈴木邦男見沢知廉

公式サイト ⇒amamiyakarin.com
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雨宮 処凛(あまみや かりん、1975年1月27日 - )は、作家政治活動家反貧困ネットワーク世話人、『週刊金曜日』編集委員、厚生労働省ナショナル・ミニマム研究会委員、「こわれ者の祭典」名誉会長。

2000年のデビュー前後は「ミニスカ右翼」と呼ばれた[1]右翼活動家だったが、後に「ゴスロリ作家」を称する[2]左派系論者に転向した[3]。2006年以降はプレカリアート問題に取り組み、格差・貧困問題をメインテーマとする。日本ジャーナリスト会議賞を受賞している。
経歴
生い立ち

北海道滝川市出身。1歳の時からアトピー性皮膚炎に悩み[4]、それが原因で思春期いじめ不登校家出自殺未遂の経験をもち、10代後半にはヴィジュアル系バンド(XBUCK-TICK[5]、LUNA SEAなど多数)の追っかけをくり返した。その後、1996年からはMALICE MIZERのバックダンサーをつとめる[6]。大学受験では美大を2浪し、浪人中にアルバイトをしていたが、数日で解雇されることが連続したため自暴自棄になり、オーバードースで自殺未遂を経験した。

球体関節人形作家天野可淡の作品に傾倒し、天野の仲間の吉田良に弟子入りしたが、粘土をこねて人形を作る際にアトピー性皮膚炎が悪化し挫折、リストカットを繰り返す日々が続いたという。
「ミニスカ右翼」、作家デビュー

20歳の時、自身の生きづらさから「今の日本はおかしい」という違和感に駆り立てられ、右翼活動に身を投じる。たまたま読んだ『ゴーマニズム宣言』第3巻の鈴木邦男にイベントの打上げで会ったのがきっかけ[7]

鈴木の著書を読み、そして出所したばかりの見沢知廉に会い、2年間、右翼団体に属する[8]。右翼活動家(超国家主義『民族の意志』同盟)時代には、ロックバンド「姫処凛」、「維新赤誠塾」、「大日本テロル」などを結成しボーカルをつとめた。そのため、彼女のパンク・ファッションなどの外見と従来の右翼に対するイメージのギャップから、「ミニスカ右翼」として一時は話題になった。元一水会顧問の作家、見沢知廉の弟子になる。1999年以後、数回にわたって塩見孝也北朝鮮に渡航し、日本人拉致に関与したともされるよど号グループに会ったことから、雨宮が8歳の時に起こった日本人拉致事件とのかかわりで2003年、自宅に「ガサ入れ」を受けた[7]

自身の壮絶な体験をもとにした処女作『生き地獄天国』が注目を集め、青少年の自殺やいじめをテーマに取り扱った作品を発表した。また、映画脚本も手がけており、ドキュメンタリー映画『新しい神様』(監督:土屋豊)では雨宮自身が主役として出演している。
右翼からの離脱、「ゴスロリ作家」へ

日本国憲法前文を読んだことがひとつのきっかけで、右翼思想に疑問を抱くようになり、2001年「大日本テロル」解散後は、「(国家皇族などに対して)依存してるだけで敬意が感じられない。自分が目指していたのはこんなものではない」と、右翼思想からは一定の距離を置くようになった。のち、関係していた右翼団体からも脱退。

その後「生きづらさ」の原因の一つに新自由主義の拡大があると考えるようになり、自ら「左傾化した」と表明した[3]。本人は自らの社会に対するスタンスが根本的な転回を経たとは認識してはおらず、「多くの人が生きづらい今のこの国(日本)は嫌だ」という違和感はかつて右翼活動をしていたころと変わっていない、或いは、「生存を求める」ことに右や左は関係ない、と語っている。ロリータ・ファッションを好んで着用しており、「ゴスロリ作家」と名乗っていたが、2010年頃からはあまり着なくなった。
プレカリアート問題の論客

2006年以降『論座』・『週刊金曜日』・『しんぶん赤旗』・『思想運動』といった革新系、左派・左翼メディアへ寄稿し、左派系論者として活動をしている。社会民主党の機関紙である『社会新報』にもコラムを掲載した。

同年から、新自由主義の拡大の結果増加したプレカリアートの問題をテーマにした取材、執筆活動に力を入れており、フリーターらによるデモや集会にも参加している。そうした中から生まれた作品として、『生きさせろ! 難民化する若者たち』がある。このような活動から、朝日新聞は雨宮を「プレカリアートのマリア」と呼んだ[9]

2007年7月18日放送の『筑紫哲也 NEWS23』「私の多事争論」で「生きさせろ!」という題名のポエムを発表。肺癌で入院中だった筑紫哲也の代役を務めている。2007年12月21日号より、椎名誠の退任に伴い、『週刊金曜日編集委員を務めている。2008年4月からは、『ビッグイシュー』日本版の支援組織「NPO法人ビッグイシュー基金」の相談役も務めている。

新型コロナウイルス感染が拡大した2020年3月、雨宮が世話人をつとめる「反貧困ネットワーク」の呼びかけで「新型コロナ災害緊急アクション」[10]が結成される。貧困問題に取り組む36団体からなるこの緊急アクションのメンバーの一人として、コロナによる困窮者支援に力を入れ、生活保護申請の同行などもしている。

また、コロナ禍ではペットとともにアパートを追い出され、ホームレス化する人も少なくないことから、ペット連れの困窮者を支援する「反貧困犬猫部」[11]を結成。部長となる。
バンギャとしての活動

10代をバンギャとして過ごしたが、2009年頃から「第二次ヴィジュアルブーム」が本人の中で始まり、新宿ロフトのLooftopで連載「一生バンギャル宣言」を開始。2011年には、新宿ロフトで「雨宮処凛presents 『バンギャル ア ゴーゴー』を2回にわたって開催。


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