難波宮史跡公園
[Wikipedia|▼Menu]
難波宮史跡公園(大阪市
復元された大極殿基壇とその手前に八角殿を模した構造物が見える。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}難波宮 位置図。

難波宮(なにわのみや)は、弥生時代後期?古墳時代応神天皇行宮で難波大隈宮。大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇の皇居、難波高津宮。以来、飛鳥時代?奈良時代、再び難波(現在の大阪市)に都が戻り法円坂周辺に造られた古代の宮殿。645年?793年まで約150年間の皇都。天皇の住まい、政治、儀式の場をはっきりした構造は難波宮が最初であり後の宮にも採用された。また、難波宮から日本という国号、元号、の使用が始まったとされ孝徳天皇改新の詔を発しその第2条で初修京師として難波宮を日本初の首都とした。大王と呼称された倭国の首長である仁徳天皇の難波高津宮も難波宮が造られた周辺にあったとされる説が最も有力な説とみなされている。跡地は国の史跡に指定されている(指定名称は「難波宮跡 附 法円坂遺跡」)。
概要

難波宮の存在は史書(『日本書紀』)には載っていたが[1]第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。

1913年大正2年)、大阪城外堀南の法円坂で、奈良時代のものと見られる数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が発見されていたが、ほとんどの人は省みず、山根徳太郎は注目したが、大日本帝国陸軍が一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だった。1945年(昭和20年)、日本の降伏によって法円坂が陸軍用地から開放され、このとき初めて学術調査の機会が訪れた。

そこで、山根を指導者とする難波宮址顕彰会が何度か予備調査を行い、1953年昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)を発見した。このことをきっかけに、1954年(昭和29年)2月から山根らは第一次発掘を開始。しかし、大阪の都心部でビルや道路建設の合間を縫っての発掘・調査は困難を極め、初期の数次の調査では、難波宮の跡なのかどうかがはっきりせず、学会はこれを「山根の宮だ」などと冷笑した[2]

しかし山根らの努力によって、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになり、1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、朱鳥元年(686年)正月「難波宮室が全焼した」という『日本書紀』の記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)、これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。

1961年(昭和36年)、山根らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された[3]。これを後期難波宮という。山根は発見当時「われ、幻の大極殿を見たり」という言葉を残した。
前期難波宮前期難波宮模型(大阪歴史博物館)前期難波宮模型
朝堂院の北に内裏が隣接する「難波長柄豊碕宮」も参照

乙巳の変大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し[4]、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。日本初の首都であり、仁徳天皇などの皇居である。また、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されている[5]

孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった(『日本書紀』巻第廿六による)。

天武天皇12年(683年)には天武天皇複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった[4]
建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。内裏南門は東西32.7メートル、南北12.2メートル。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef