難波大助
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難波大助

生誕1899年11月7日
山口県熊毛郡周防村
死没 (1924-11-15) 1924年11月15日(25歳没)
東京府東京市 市ヶ谷刑務所
国籍 日本
職業日雇労働者
罪名大逆罪
刑罰死刑
親父・難波作之進、母・難波ロク

動機天皇制否定
有罪判決1924年11月13日

難波 大助(なんば だいすけ、1899年明治32年〉11月7日 - 1924年大正13年〉11月15日)は、日本共産主義者極左テロリスト。大正期の反逆的な社会運動家[1]

1923年(大正12年)12月の虎ノ門事件摂政宮(皇太子裕仁親王)を襲撃し、暗殺しようとした。審理が行われた大審院でも皇室否定の主張を曲げず、大逆罪により死刑に処された[1]
生涯
思想背景

1899年(明治32年)、山口県熊毛郡周防村立野宮河内(現・山口県光市立野宮河内)の名家に生まれた[1]。難波家は長州藩士ではなく陪臣であり、長州藩寄組清水氏の家臣で、清水宗治の弟難波宗忠(家老)を家祖とし、戦国時代から主従関係は変わることはなかった[2]。難波の父・作之進は、庚申倶楽部所属の衆議院議員であった。母は難波ロク[1]

徳山中学(山口県立徳山高等学校の前身)時代は、父の影響を強く受けた皇室中心主義者であり、『大阪朝日新聞』の非買運動を行うなどしていた。中学5年生の時、田中義一陸軍大臣が山口に帰省した際、強制的にみぞれの降る辛い状況の中、沿道に整列させられ、本人は頑丈さ故に無事だったが、難波の親友が肺炎で倒れ、それに対し教師が理不尽に「無礼だ」と叱った事に憤慨し、思想的な変化が芽生えたという。その際教師を二、三名打ち倒した。鴻城中学でも学ぶが、中退した[1]

1919年(大正7年)、予備校に通うため上京し、四谷に居住することになった。貧民窟として知られる鮫ヶ橋(鮫河橋とも。現・東京都新宿区若葉三丁目)の近くということもあり、貧困の実情を目の当たりにしたことや、河上肇の『断片』などを読み、次第に社会問題に対して義憤を覚えていった。

この当時は、大逆事件(幸徳事件)に関する裁判記事なども読み漁っていたという。この頃に参加した日本社会主義同盟の講演会において、警官の横暴を目撃したことがテロリズムを志向する転機となった[3]

1922年(大正11年)、難波は早稲田第一高等学院に入学したが1年で退学した[1]

その後、難波は日雇労働者として生活していく中で、労働運動社会主義運動にも触れ、共産主義暴力革命にも傾倒していった。一時は個人的テロよりも労働者の団結を重視して、労働運動のための活動も行っていた。しかし、1923年(大正12年)9月の関東大震災の最中に、アナキスト大杉栄らが官憲に殺害された甘粕事件や、労働運動を弾圧するため社会主義者らが官憲によって拉致・殺害された亀戸事件などに衝撃を受け、その憤慨をプロレタリアの皇室崇拝の念を打破するための皇室へのテロという形で発散させることを思い立つ。この皇室へのテロの目標は、脳病で執務能力を失ったとされていた大正天皇より、摂政として実務を行っていた摂政宮皇太子裕仁親王がよいと考えるようになった。
虎ノ門事件詳細は「虎ノ門事件」を参照

難波は関東大震災と前後して、しばしば山口へ帰省している。父・作之進のすすめで始めた狩猟をきっかけとして仕込み型のステッキ散弾銃を入手し、これで皇室に対するテロの実行を決意した。なお、難波が使用したこのステッキ散弾銃は、伊藤博文ロンドンで購入し、人を介する形で難波の父・作之進に渡った物と言われている。実行に際して、狂人扱いされることを避けるため、新聞社などにテロ決行と共産主義者であることを伝える趣意書を送付し、友人には累が及ばないように絶交状を送付した。

1923年(大正12年)12月27日、難波は東京・虎ノ門(現・東京都港区虎ノ門)で皇太子裕仁親王を近接狙撃するが失敗に終わる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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