離洛帖
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この項目では、藤原敦敏の子で三跡の一人について説明しています。藤原敦忠の子で大雲寺の開祖については「真覚」をご覧ください。

 凡例藤原佐理
菊池容斎前賢故実』より
時代平安時代中期
生誕天慶7年(944年
官位正三位参議
主君村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族藤原北家小野宮流
父母父:藤原敦敏、母:藤原元名の娘
養父:藤原実頼
兄弟佐理、藤原為光室、章明親王妃、藤原高光
妻正室:藤原淑子(藤原為輔の娘)
子頼房、藤原懐平
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藤原 佐理(ふじわら の すけまさ/さり[1])は、平安時代中期の公卿能書家藤原北家小野宮流摂政関白太政大臣藤原実頼の孫。左近衛少将藤原敦敏の長男。三跡の一人で草書で有名。目次

1 経歴

2 人物

3 逸話・説話

4 真跡

5 官歴

6 系譜

7 脚注

8 出典

9 関連項目

経歴

天暦元年(947年)佐理が4歳の時に父・敦敏が39歳で亡くなったため、祖父の実頼によって育てられる。左近衛将監を経て、応和元年(961年従五位下叙爵し、侍従に任ぜられる。右兵衛権佐・右近衛少将と武官を経て、康保4年(967年冷泉天皇が即位し、養父・実頼が関白に就任すると従五位上に、翌安和元年(968年正五位下と続けて昇叙される。また、同年実頼の関白太政大臣辞任の上表文の清書を務める[2]摂関大臣致仕の上表文の執筆は能書家にとって重要な書写活動であったため[3]、当時既に佐理は能書家としてある程度の地位を築いていたと想定される[4]

安和2年(969年円融天皇の即位後まもなく右中弁に転任する。天禄元年(970年)5月に養父の実頼が薨去するが、同年11月の大嘗会において佐理は悠紀・主基屏風の色紙型を書き[5]、その功労により従四位下に叙せられる[6]。天禄2年(971年)左中弁、天延3年(975年)従四位上、貞元2年(977年)には焼亡から再建した新しい殿舎や門の扁額を揮毫するが、円融天皇からその筆跡を感嘆されて勅禄を与えられると共に[7]正四位下に叙せられるなど、円融朝の前半は弁官を歴任しながら順調に昇進し、天元元年(978年参議に任ぜられ公卿に列した。永観元年(983年)円融天皇の御願寺である円融寺落慶供養が行われた際、願文の清書を行う[8]。円融朝末の永観2年(984年)再び造営された内裏の殿舎・門の扁額の揮毫を行い従三位に叙せられている。

同年に花山天皇が即位しその大嘗会でも悠紀主基屏風の色紙型を書き、寛和2年(986年)の一条天皇の大嘗会でもみたび屏風の色紙型の筆を執った[5]。花山朝から一条朝にかけては、天皇外戚である藤原義懐(花山天皇外叔父)や、藤原道隆道兼道長兄弟(一条天皇外叔父)らに昇進で次々と先を越される中、正暦2年(991年)には大宰大弐に任ぜられる。大宰大弐は役得が多いものの、参議が任ぜられる場合は大抵が兼任となるところ、佐理は参議を解かれて大宰府へ赴任することになった。これは、当時の摂政・藤原道隆が嫡子の伊周のために参議の席を空けさせたものと想定される[9]。佐理はこの異動に不満を持ったらしく、赴任にあたって道隆に挨拶もせず出発してしまうが、思い直して挨拶を忘れたとりなしを縁者に頼んで作成した書状が『離洛帖』として現在に伝わっている。

正暦3年(992年正三位。しかし、正暦5年(994年)神人と乱闘したとして宇佐八幡宮から訴えられる[10]。乱闘を起こした事情は明らかでないが、佐理は病気を理由に大宰府使との面会を拒絶したことから、朝廷に対する抵抗とみなされ[11]、大宰大弐の官職を解かれた[12]。帰洛後は大宰府での失策にもかかわらず、長徳3年(997年)朝参を許されて[10]太皇太后宮権大夫に任ぜられる。

長徳4年(998年)正月に兵部卿に再任されるが、同年7月25日薨去享年55。最終官位は前参議正三位兵部卿
人物

草書の第一人者として評価が高く、流麗で躍動感のある筆跡は「佐跡」と呼ばれ、小野道風藤原行成と共に三跡の一人に数えられる。当時より能書家で知られ、円融花山一条の3天皇の大嘗会屏風の色紙形の筆者を務めた[5]。『参議要抄』には『佐理参議抄(佐理抄)』なる書が引用されており、小野宮家の一員らしく、故実についても一家言あったと見られる。

一方で酒を好みいいかげんな性格だったようで、『大鏡』は「御心ばえぞ、懈怠者、すこしは如泥人ともきこえつべくおはせし」(ご性格は、なまけ者で、いささか愚図との噂もあられる」[13])と評している。[14]。現存する真跡は、不始末のわび状や言い訳の類が多い。例えば『離洛帖』は、大宰府への下向に際して執政の藤原道隆に挨拶を忘れたとりなしを縁者に頼む内容である。また金にも困っていたらしく『去夏帖』は、自邸が壊れかけているが、修理費がないことを訴えている。一方で、詫び状という本来鑑賞には向かない内容の書状が今日まで伝えられたのは、ひとえに佐理の筆跡の魅力故だろう。また、詫び状でありながら、脱字があったり書き損じの上に重ね書きをするなど、執筆態度はぞんざいであり、自らの不始末にはいっこうに頓着せず、平気で書き流すことができた性格が窺われる[15]
逸話・説話

太宰大弐の任期が終わり帰洛途中、伊予国に入る手前の港で暴風雨にあい数日足止めされた。するとある夜、夢に三島明神が現れ「社の額をあなたに書いてもらいたいと思い、暴風雨を起こして引き留めた」と告げた。そこで佐理が神前で揮毫し、無事都へ帰ることができたという[14]。この額は大山祇神社の宝物館に神号扁額として所蔵されている。


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