雑賀衆
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雑賀衆(さいかしゅう)は、中世日本に存在した鉄砲傭兵・地侍集団の一つである。また、史料に見られる「国」と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。雑賀衆は紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍達で構成されていた。高い軍事力を持った傭兵集団としても活躍し、鉄砲伝来以降は、数千挺もの鉄砲で武装した。また海運貿易も営んでいた。「さいが」と読むのは誤読である。
歴史.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに鷺森旧事記の原文があります。

雑賀衆を構成した主な一族としては、雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷(現和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)の雑賀党鈴木氏などが知られている。

雑賀衆は15世紀頃に歴史に現れ、応仁の乱の後、紀伊国河内国守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長していった。紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する。

「雑賀衆」という言葉の史料上の初出は、本願寺蓮如の子である実従の「私心記」1535年6月17日条であり、「雑賀衆三百人計」が大坂本山に来援した、とある。そしてこの翌年2月には証如からこの時の活躍について感謝状(『本願寺文書』)が出されている[1]顕如

1570年(元亀元年)に織田信長三好三人衆の間で野田城・福島城の戦いが起こると、鈴木孫一(雑賀孫市)らを指導者とする雑賀衆は傭兵部隊として三好三人衆軍についた。一方、足利義昭の要請に応じた畠山昭高が雑賀衆・根来衆らを援軍として送り出し、織田信長軍についた。その後大規模な銃撃戦、攻城戦が繰り広げられたが、雑賀衆同士が戦った可能性を示唆している研究者もいる[2]。この傾向は石山本願寺が野田城・福島城の戦いに参戦した後も変化が無かった。むしろ、1573年(元亀4年・天正元年)に三好長治が重臣の篠原長房を討った上桜城の戦いでは、三好長治は日蓮宗を保護して浄土真宗を弾圧し、篠原長房は三好三人衆や石山本願寺ともに反信長派でしかも妻が本願寺の一族出身であったにもかかわらず、雑賀衆は三好軍に参加して篠原氏を滅ぼし、石山本願寺に打撃を与えている(ただし、雑賀の真宗門徒の主張によって、長房の妻とその所生の男子は殺されずに門徒に引き渡された)[3][4]。だが、この年に足利義昭が織田信長により都から追放されて紀伊の由良郡にある興国寺に入り、同じ年に畠山昭高が重臣の遊佐信教に殺害されると、多くの雑賀衆は石山本願寺につき、織田信長軍と戦った[5]

織田信長と石山本願寺の抗争は激化し(石山合戦)、1576年(天正4年)5月に織田軍は雑賀衆に敗退を喫した[6]。さらに同年7月には織田方の水軍が毛利氏と雑賀衆の水軍と戦い壊滅的な被害を受けている[6]第一次木津川口の戦い)。

信長は本願寺を倒すために、まず雑賀衆を抑えることを考え、中郷(中川郷)・南郷(三上郷)・宮郷(社家郷)の雑賀衆及び根来衆杉坊をあらかじめ味方につけた。

1577年(天正5年)2月、信長は10万の大軍で和泉国に展開し、6万の軍勢を雄山峠と孝子峠の二手に分けて紀伊に侵攻し雑賀衆と交戦した[6](第一次紀州征伐)。織田軍は中野城こそ落とすも、不慣れな地形に苦戦したが、最終的には雑賀荘・十ヶ郷の雑賀衆を率いる鈴木孫一・土橋守重らに誓紙を提出させ、服属を誓わせた。しかし、この戦いで織田軍は大きな損害を出し、服属させたはずの雑賀衆もすぐに自由な活動を再開して本願寺に荷担し、孫一は信長に協力した宮郷の雑賀衆や根来衆が守る太田城を攻めた。しかし、戦況が膠着状態となり和議が成立し信長の軍は撤退した[6]。信長撤退後、内紛が発生した雑賀衆だったが鈴木孫一らが掌握した[6]

1577年(天正5年)8月頃に信長は再び雑賀衆と交戦したが撤退している[6]

雑賀衆は同時期の四国地方での戦いにも関与している。

近世軍記物の『土佐物語』巻第十一「今市合戦に紀州湊雑賀降参の事」には、「四国の大半が元親の掌握に落ちたのを聞き、その威に恐れ、紀州湊雑賀の者共一同に、連判起請文を書いて土佐へ降参し、人質2、3人代わり代わり在岡豊をぞ、したりける」と記述され、土佐に人質を常に送っていたことが記される。この他にも巻第十三「勝瑞の城 没落の事」において、雑賀の者共が2千余、寄せ手の陣へ馳せ加わったと記述がみられる。

1580年(天正8年)4月、門主顕如が石山本願寺から退去して石山戦争が終結すると、雑賀衆の門徒たちは雑賀の鷺森(現在の鷺森別院)に顕如を迎え入れた[6]。しかしこれ以降、織田信長に進んで従おうとする派と反織田を貫こうとする派が対立し、雑賀衆の内部は分裂することとなった。1582年(天正10年)には親織田派の鈴木孫一が反対派の土橋氏を倒すが、同年の本能寺の変によって信長が横死すると、孫一は織田信張のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。

なお、毛利方が本能寺の変報を入手したのは羽柴秀吉撤退の日の翌日で、雑賀衆からの情報であったことが吉川広家の覚書(案文)から確認することができる[7]

以後は、もっぱら中央集権化を進めて土豪の在地支配を解体しようとする羽柴秀吉の動きに雑賀衆は一貫して反発し続け、根来衆と組んで小牧・長久手の戦いでは大坂周辺にまで出兵して尾張に出陣した秀吉の背後を脅かした。1584年(天正12年)1月、和泉国で秀吉と雑賀衆・根来衆の対立が激化し、一時、紀州勢は大坂城に迫る勢いであった[6]

1585年(天正13年)、秀吉は徳川家康と和解。同年3月、秀吉は和泉国で本格的な戦闘を開始し、敗走する紀州勢を追って6万の軍勢で紀伊国に攻め入った[6]千石堀城の戦い、第二次紀州征伐)。3月末には拠点であった太田城が落城し雑賀衆は終焉を迎えた[6]

かつての雑賀衆は、滅びた土豪勢力として帰農したり、各地に散らばって鉄砲の技術をもって大名に仕え、集団としては歴史から消滅した。根来寺の大塔/国宝火縄式鉄砲
雑賀衆の実態
雑賀衆と雑賀一向一揆

雑賀衆は鈴木重秀土橋守重を始め、石山御坊などに籠城しているところから、浄土真宗門徒と考えられてきた。

だが、雑賀地域には浄土宗西山派の本山とされる総持寺があり、しかも総持寺の近くにある同宗の安楽寺が土橋氏の菩提寺であったことが判明してきた[5]。武内善信の研究によれば、戦国時代の雑賀周辺は浄土真宗と浄土宗の勢力が拮抗し、更に真言宗も入り込んでいたとする。鈴木氏は浄光寺末の一道場の代表信徒に過ぎなかったが、早くから本願寺を支援し、また有力な地侍ということで本願寺からは雑賀の一向衆の指導者である年寄衆と同格に扱われていた。また、浄土宗の中でも西山派の中には粟の土橋氏のように反信長の立場から石山戦争に協力的な者もいたが、加太の西山氏のようにこれに加わらない者もおり、一方で鎮西派の人々は非協力的であった[8]


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