雉本朗造
[Wikipedia|▼Menu]

雉本 朗造(きじもと ときぞう・ろうぞう、1876年1月11日 - 1922年3月15日)は、日本法学者男性愛知県愛知郡鳴海町笠寺鳴尾(現・名古屋市)生まれ。
目次

1 略歴

2 研究

3 社会活動

4 著書

5 関連項目

6 外部リンク

略歴

1903年
東京帝国大学法科大学独法科卒業(銀時計を授与される)

1904年-1908年 ドイツ留学。この間に司法官試補となる。

1908年 京都帝国大学法科大学教授

1909年 法学博士

1918年 京都帝国大学法科大学長

1920年 大阪に立命館大学付属法律研究所設立。郷里愛知県の鳴海小作争議にかかわる

1922年 静養先からの帰途、瀬戸内海を航行中の船上から姿を消し、後に遺体で発見される

研究

ドイツで民事訴訟法を学んだ後に帰国し、日本の民事訴訟法を体系化。我が国の民事訴訟法学の基礎を築いた。ドイツ法学に依拠する証明責任論を展開し、真偽不明論を提唱した。また、「生きた法学実践」活動として、兼任していた立命館大学の付属研究所の設立に関与するも、雉本の急死でこの研究所は2年という短期間で閉鎖された。
社会活動

大正デモクラシーの理論的旗手」と称される。

1917年、鳴海の小作人は、長雨を原因とする凶作を理由に小作料の引き下げを要求し、鳴海小作争議が勃発する。雉本家にかつて出入りしていた小作人が、大学教授で高い法律知識をもつ雉本に争議への協力を願い出た。1920年に仲裁に入った雉本に対し、地主側がまったく応じようとしなかったため、雉本は農民の側に立って裁判の参加に踏み切る。この時、立命館大学付属法律研究所も支援。争議は長引き、1922年には帝国議会でも問題となり、小作争議を支援した雉本は非難された(雉本の死の翌年に和解が成立し、小作料が引き下げられた)。
著書

『民事訴訟法論文集』

『民事訴訟法の諸問題』

『判例批評録』

関連項目

法学

民事訴訟法

日本の法学者一覧

外部リンク

鳴海争議を指揮した京都帝国大学教授(愛知エースネット)

愛知県名古屋市緑区浦里公園にある銅像(日本掃苔禄)

雉本朗造の法律研究所(satosholog)

典拠管理

WorldCat Identities

ISNI: ⇒0000 0000 4525 3264

LCCN: ⇒n92122502

NDL: 00032824

VIAF: 6597948

この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますPJ:人物伝/P:教育)。

この項目は、分野に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますP:法学/PJ法学)。


更新日時:2016年10月23日(日)08:02
取得日時:2019/07/19 00:33


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:6890 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef