集団主義
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集団主義(しゅうだんしゅぎ、: Groupism)とは、個人国家よりも社会集団に対して価値を置く思想、或いはその傾向を指す用語である[1]対義語個人主義(individualism)。個人主義や集団主義という用語が最初に用いられたのは18-19世紀のイギリスの政治思想の世界とされ、個人主義は自由主義(リベラリズム)と同義で、権威主義と対比される言葉として用いられた[2]
概要

集団主義の辞書的定義には以下がある。"The practice or principle of giving a group priority over each individual in it” ? 各々の個人が所属する集団に、個人を超える優先権を付与する行為形態または原理、[3]

集団主義は個人主義に反対する。西洋諸国は個人主義的とされ、非西洋社会(アフリカ諸国・アラブ諸国・アジア諸国・中南米諸国・ロシア)は集団主義社会とされる[4]カール・マルクスは、19世紀における最も強力な集産主義の唱道者であった。共産主義ファシズム社会主義は集産主義的システムである。
哲学

紀元前5世紀のギリシアに、ソフィストたちの個人主義的な哲学と、これに異を唱えるプラトンソクラテスという構図があった[5]。H.C.トリアンディスの『個人主義と集団主義』によれば、中国の哲学の伝統は集団主義的であったが、孔子の思想および末期の多くの哲学者の思想は個人主義的な志向を持っていたという[6]
経済学・政治学

政治学経済学の分野では、コレクティビズムを集産主義と訳す場合が多い。詳細は「集産主義」を参照

経済学では、自由放任主義の個人主義とマルクス主義的な集団主義が対峙した。社会体制として経済と深く関係する政治学においては、可能な限り政府は関与しないとする資本主義と、これに対峙するすべてをリーダーに服従するファシズムがあり、その中間に、個人主義的な傾向の強い順に、社会民主主義社会主義共産主義がある[7]

但し『レーニン全集 第5版』によると最晩年のレーニンロシアが克服すべき害悪として、集産主義プロレトクリト社会革命党(ナロードニキ主義)の三つをあげている。
文化論

ハリー・トリアンディスは、「親密に結びついた人々が織りなす社会的なパターン」を集団主義、「緩やかに結びついた人々が織りなす社会的なパターン」を個人主義と定義し[8]、集団主義的な文化の国としてブラジルインドロシア日本を挙げ、個人主義的な文化の国としてフランスアメリカ合衆国イギリスドイツを挙げる[8]。“主観的文化”の要素を「言葉、共有される信念、態度、規範、ルール、行動」であるとし[9]、主観的文化に影響を及ぼすものとして、土地の気候および生態の変化・歴史的な出来事(戦争、異文化集団による征服)・文化の普及(移住、異文化製品の流入)を挙げる[10]

トリアンディスは、どの文化にも個人主義的な個人と集団主義的な個人がおり[11]、どの個人も個人主義的な要素と集団主義的な要素を持ち合わせており[12]、ある個人が個人主義的であるか集団主義的であるか、ある文化が個人主義的な文化であるか集団主義的な文化であるかは、そのバランス、割合によって決まる[13]、生活の個々の場面・局面において、どちらの要素を選択するのかが社会的行動の決定要因となる[14] と述べる。極端な傾きは個人主義と集団主義のどちらも不合理を招く[15] と述べる。

トリアンディスによれば、集団主義的な認知要素は“私が属する集団は私がこうすることを望んでいるという考え”で、例えば個人主義的な認知要素は、"私は親切であるという考えである[16]。集団主義者は、"みんなの考え方、感じ方、行動が同じであること"を望み、個人主義者は"議論を通して立場を明確にすることを好む[17]。個人主義者は確信のために独自の論拠を探そうとし、集団主義者は、「同意が得られる領域を探そうとして」、「意向をためらいがちに打診する」[18]。個人主義は寛容さと文化的複雑性の結果であり、集団主義は厳格さと文化的単純さの結果である[19]。個人主義者は人の行動の肯定的結果に着目し、集団主義者は否定的結果に着目する[20]

トリアンディスによれば、人口比で世界の多数派は集団主義者であり、個人主義、西洋的な物の見方は少数派である[21]
日本・中国「日本人論」も参照

トリアンディスは『個人主義と集団主義 2つのレンズを通して読み解く文化』にて、「個人主義」、「集団主義」についての理解を試み、集団主義的な文化の国の例として日本[22] や中国[23] を挙げる。しかし、学界では日本の集団主義の程度は米国と差がないという声が常にある。質の高い証拠とされるメタアナリシスでも、アメリカの集団主義は日本より高く、集団主義の指標の一つである慈善活動は日本の方が高いという結果が出ている[24]

原則関係社会を個人主義的な社会[25]、人間関係社会を集団主義的な社会[26] であるとし、原則関係社会をイデオロギー的[27]・普遍主義[28]・知性主義・理論的・「特徴」的[29]、人間関係社会を派閥的[27]・個別主義[28]・感性主義・直感的・「場」的[29] であるとする。

人間の社会はもともと人間関係社会であり、原則関係社会は原則・抽象的なものが必要とされていくうちに出現したもので[30]、現代の原則関係社会を人間関係社会から原則関係社会へ変化させたものは他文化との戦争である[31] とする。

人間関係社会のアイデンティティは目にみえる場的・地縁的なグループであり、原則関係社会のアイデンティティは抽象的なグループ、たとえば、「私は○○人である」というような考え[32]、階級、職業、たとえば「女性解放運動」などといった哲学、血縁[33] などである。

人間関係社会は場に対する敏感さから文化を生み、原則関係社会は抽象的なもの・原則に対する敏感さから文化を生むという特徴がある[34]。人間関係社会は他の目にみえるグループや人に対して排他的、原則関係社会は他の思想やアイデアに対して排他的である[35]。人間関係社会は合理的になると原則的現実主義たとえば高度成長時代の日本の会社を生み、非合理になると教条的感情主義たとえば日本の軍国主義や派閥主義を生む、原則関係社会は合理的になると現実的原則主義たとえば社会科学を生み、非合理になると感情的教条主義たとえば宗教的・政治的狂信を生む、最も合理的、コモン・センス(common sense)に至った場合は、人間関係社会と原則関係社会の傾きを自由に行き来でき、偏りがなくなる[36] とする。原則関係社会は洗練された知性主義を醸し出し、人間関係社会は洗練された感性主義を醸し出す[36] という。

クラークによれば、「人間関係社会」、「原則関係社会」という把握は、身近にある具体的個別的な環境や人間関係にこだわる志向と普遍的抽象的な原則にこだわる志向ということで、社会科学で広くいわれている「個別主義(Particularism)」、「普遍主義(Universalism)」という把握と根本的には同じである。しかし、グループの構造だけではなく思想の志向にも着目している点が異なるという[37]。これにより、1979年時点の(欧米の)社会科学では日本は欧米より個別主義的で、中国・インド・イスラム社会は日本より個別主義的であると理解されるが、クラークによる説では、中国・インド・イスラム諸国は欧米より普遍主義的で、日本は欧米より個別主義的であると把握される[37] とする。また日本の歴史を通してみると、部族的な状況にあった時代は人間関係社会で、朝鮮半島での中国大陸や朝鮮半島の勢力との戦争に関わっていた時代には原則関係社会へ傾き、平安時代に入り朝鮮半島での戦争と関わりがなくなると人間関係社会へ戻り、帝国主義時代の欧米との接触が始まった江戸幕末以降、第二次世界大戦に敗れるまでの間は原則関係社会へ傾き、戦後は人間関係社会の方へ戻ってきたとする[38]。また、人間関係社会は、原則に基づいた組織をコントロール出来るか不安があるという[39]。オーストラリアはヨーロッパ移民の思想の流れを受け継ぐが、地理的に他所の国・文化と離れていて長く他文化に侵略される不安・戦争に巻き込まれる経験を有さないので、人間関係社会へと傾いた経験があるという(1979年時点)[40]

ロナルド・E.ドーランとロバート・L.Wordenらは日本でグループで働くにはグループ間の相互依存を強め、グループのメンバーではない者との違いについての感覚を強化し、そうして成功したコミュニケーションチャネルを開発する必要が迫られるとしている[41]。それでも、現代の社会で生活や仕事をしている個人間に起こる社会的相互作用を超えた作用も必要で、新聞の購読購入など関係が短時間で重要事項でない場合、個人の価値観は維持されているとしている[41]。しかし、近隣であるかどうかにかかわらず関係がビジネス、結婚、就職雇用など、長期にわたって続くと予想される場合、良い関係を確立し維持するために細心の注意が払われうることもあり、このような関係は多くの場合希望者への提供、仲人として機能することで相対、友人、または同僚のソーシャルネットワークを活用することによって関係が開始されるとしている[41]。仲人はこの場合各家族の経歴を調べたり、公私に仲介、相談に乗ったりする、 結婚の取り決め(場合によっては見合い)について交渉する人を指す。しかし、この種の個人的な調停は日本の生活の多くの面で一般的事項であるとしている[41]

山岸俊男は『心でっかちな日本人』で、集団で行動する日本人をみて、その個々の成員が "集団で行動することを信望している" "望んでいる" "集団主義者である と理解することを「心でっかち」と呼び[42]、その理解は違う[43] とし、その誤解の解消[44] を試みる。

山岸は『心でっかちな日本人』で、日本人が集団のなかで(己を犠牲にしてでも)遠慮し合って協調的に行動するのは、喜んで・好んで・進んで・自発的に・前向きに集団の利益を望んでいるからではなく、「集団の利益に反するように行動するのを妨げる社会のしくみ、相互監視と相互規制のしくみが存在しているから[45]」、「圧力やしがらみ、あるいは社会のしくみのせい[46]」であるとする[47]。集団のほかの成員からどう思われるだろうという心配、相互監視と相互制裁が働く状況を人為的に取り除いた社会心理学の実験では、アメリカ人のほうが日本人より集団の共通目標に協力的に行動することが確かめられた[48] という。「まわりの人たちがとっている行動によって、その行動をとることの利益とコストが変わってくる行動」[49] を "頻度依存行動" と呼び、相互に依存的な頻度依存行動は経済学でいう「戦略的補完性」にあてはまる[50] とし、頻度依存行動と限界質量、相補均衡という言葉・概念で いじめ、衣服の流行、大学や企業の選択を説明[51] し、終身雇用と年功序列の日本的雇用慣行を経営者と労働者の戦略的補完性として説明する[52]


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