雅楽
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この項目では、日本の雅楽について説明しています。その他の用法については「雅楽 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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御前での胡蝶の舞、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版

雅楽(ががく)は、日本の古典音楽の一つ。以下、宮内庁式部職楽部に伝わる雅楽(重要無形文化財ユネスコ無形文化遺産→2007年)を中心に述べる。

ベトナムについては「ベトナムの雅楽」を参照。
概説

アジア大陸の諸国からもたらされた音楽に、上代以前から伝わる音楽や舞が融合して日本化した芸術10世紀頃の平安時代に大まかな形態が成立し、今日まで伝承されている。元は、奈良時代にまで遡る。

現在においては、以下の三つに大別される。

国風歌舞(くにぶりのうたまい) ? 日本古来の歌謡をもとに平安期に完成された、神道皇室に深い関わりをもつ歌舞。神楽東遊、倭歌、大歌久米歌誄歌などで、主に宮廷の行事や儀式で演奏される[1]

大陸系の楽舞 ? 5世紀頃から9世紀頃までの間に大陸から伝わった楽舞をもとに日本で作られた、中国天竺林邑系の唐楽(とうがく)と、朝鮮半島渤海系の高麗楽(こまがく)。インドベトナム地域やシルクロードを西にたどった地域から伝来した音楽や舞も含まれる[1]

謡物(うたいもの) ? 日本古来の民詩や漢詩に節づけをした声楽で、大陸からの渡来楽器による伴奏を伴う平安期に新しく作られた歌曲。催馬楽朗詠など[1]

雅楽の原義は「雅正の楽舞」で、「俗楽」の対。国内の宮内庁式部職楽部による定義では、宮内庁式部職楽部が演奏する曲目の内、洋楽を除くもの、とされる。多くは器楽曲で宮廷音楽として継承されている。現在でも大規模な合奏形態で演奏される伝統音楽としては世界最古の様式である。ただし、平安時代に行われた楽制改革により大陸から伝来したものは編曲や整理統合がなされ国風化しているため、かなり変化している。主に京都の貴族の間で行われていた宮廷音楽としての雅楽の形態については応仁の乱以降、江戸幕府が楽師の末裔(楽家)を集めて再編するまでの100年以上は、各家々で細々と継承を続けてきた為、同じ曲でも流派によって何通りもの解釈が存在する。また、後述するように明治時代以降は演奏速度に変化が見られる。

篳篥のカタカナで記されている譜面唱歌(しょうが : メロディーを暗謡するために譜面の文字に節をつけて歌う事)として歌うときに、ハ行の発音を「ファフィフフェフォ」と発音するなど16世紀以前の日本語の発音の特徴などはそのまま伝えられている可能性が高い。

楽琵琶の譜面のように漢字で記されるものは、中国の敦煌で発見された琵琶譜とも類似点が多く、さらに古い大陸から伝わった様式が多く継承されている。

最も重要な史料としては、狛近真の『教訓抄』(きょうくんしょう)、豊原統秋の『體源抄』(たいげんしょう)、安倍季尚の『楽家録』(がっかろく)が日本三大楽書とされている。

明治撰定譜に収録され、現在演奏されている曲は現行曲と呼ばれ、唐楽103曲と高麗楽32曲がある。現在楽譜が残っているが、明治撰定譜にない雅楽の曲は遠楽と呼ばれ、現代では稀に復曲されて演奏されることもある。また曲名は資料で確認できるが、楽譜が現存せず既に演奏が不可能な雅楽の曲は亡失曲と呼ばれる。雅楽の古典曲の総数は、現行曲だけでなく遠楽や亡失曲も含めると現行曲の倍以上にのぼる。

現在では、雅楽のジャンルの中では唐楽が最も有名であることから、一般的に雅楽というと、唐楽のイメージが強いが、他にも上述のような多くのジャンルの雅楽がある。
歴史春日権現験記

5世紀前後から中国大陸、朝鮮半島など(南アジアについては、736年に大宰府に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類される[2]。)から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになった[3]大宝元年の大宝令によって、これらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。この頃は唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑楽(チャンパの音楽)等大陸各国の音楽や楽器を広範に扱っていた。中国の雅楽は儀式に催される音楽であったが、日本の雅楽で中国から伝わったとされる唐楽の様式は、この雅楽とは無関係で、の宴会で演奏されていた燕楽という音楽がもとになっているとされる。ベトナムの雅楽(nha nh?c)や韓国に伝わる国楽は中国大陸の雅楽に由来し、日本の雅楽とは異なる。天平勝宝四年の東大寺の大仏開眼法要の際には雅楽や伎楽が壮大に演じられるなど、この頃までは大規模な演奏形態がとられていた。また、宮中の他に四天王寺東大寺薬師寺興福寺など一部の大きな寺社では雅楽寮に属さない楽師の集団が法要などの儀式で演奏を担っていた。

平安時代になると雅楽寮の規模は縮小され、宮中では左右の近衛府の官人や殿上人、寺社の楽人が雅楽の演奏を担うようになった。貴族の間では儀式や法要と関係のない私的な演奏会が催されるようになり、儀式芸能としての雅楽とは性格を異にする宮廷音楽としての雅楽が発展していった。この流れの中で催馬楽朗詠今様など娯楽的性格の強い謡物が成立した。唐楽、高麗楽の作風や音楽理論を基にした新曲も盛んに作られるようになった。また、平安初期から中期にかけては楽制改革と呼ばれる漸進的な変更が行われた。三韓、渤海の楽は右方の高麗楽として、唐、天竺、林邑などの楽は左方の唐楽として分類された。また、方響阮咸など他の楽器で代用できる物や役割の重なる幾つもの楽器が廃止された。この他にいくつかの変更を経て現代の雅楽に近い形が整い本格的に日本独自の様式として発展していく事になる。

平安時代末期からは地下人の楽家が台頭するようになり、宮中では鎌倉時代後期以降はそれまで活動の主体であった殿上人の楽家に代わって雅楽演奏の中核をなすようになる。この影響で龍笛に代わって地下人の楽器とされていた篳篥が楽曲の主旋律を担当するようになった。

室町時代になると応仁の乱が起こり戦場となった京都の楽人は地方へ四散し、宮中の雅楽の担い手である貴族の勢力は大きく衰退した。また、乱により楽譜などの資料や舞楽装束の大半が焼失した。乱が雅楽に与えた影響は大きく、多くの演奏技法や曲目が失われ宮廷音楽としての雅楽はほぼ断絶した。京都では乱の後しばらく残った楽所や各楽人によって細々と雅楽が伝承される状態が続く事になる。一方で四天王寺など京都から離れた寺社では乱の前後で雅楽の伝承にはあまり影響がなかったため、後に宮中雅楽の復興に大きく関わることになる。

正親町天皇後陽成天皇の代になると四天王寺、興福寺などの寺社や地方から京都に楽人が集められ、雅楽の関わる宮廷儀式が少しずつ復興されていった。


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