雅山哲士
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「竹内雅人」はこの項目へ転送されています。「竹内將人」あるいは「竹内正人」とは別人です。

雅山 哲士

平幕時代の雅山(2008年5月場所)
基礎情報
四股名雅山 哲士
本名竹内 雅人
愛称マサト
20世紀最後の怪童
平成の新怪物
生年月日 (1977-07-28) 1977年7月28日(46歳)
出身茨城県水戸市
身長187cm
体重188kg
BMI53.76
所属部屋武蔵川部屋→藤島部屋
得意技突き、押し、右四つ、叩き
成績
現在の番付引退
最高位西大関
生涯戦歴654勝582敗68休(88場所)
幕内戦歴599勝563敗68休(82場所)
優勝十両優勝2回
幕下優勝2回
殊勲賞2回
敢闘賞5回
技能賞1回
データ
初土俵1998年7月場所
入幕1999年5月場所
引退2013年3月場所
引退後二子山部屋師匠
日本相撲協会評議員(1期)
2016年3月 - 2018年3月
趣味パチンコ
備考
金星2個(朝青龍2個)
2019年3月26日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

雅山 哲士(みやびやま てつし、1977年(昭和52年)7月28日 - )は、茨城県水戸市出身で藤島部屋(入門時は武蔵川部屋)に所属した元大相撲力士。本名は竹内 雅人(たけうち まさと)。最高位は西大関。現在は年寄・二子山
来歴
入門前

3人きょうだいの長男(第2子。姉と妹がいる)[1]として茨城県水戸市で生まれる。実家は茨城県内にバス路線網を持つ旧茨城交通グループのオーナー一族である[注釈 1]。小学生時代には空手ソフトボールバスケットボールに取り組んでいたが、小学校6年時に担任の先生から「大会で勝ったら、焼肉をいっぱい食べさせてあげるから」と言われ水戸市の少年相撲大会に出場したところ優勝したことで相撲に興味を持ち始める[2]

水戸市立見川中学校時代は柔道部に在籍していたが、柔道部の顧問に直談判して相撲を続けることができた[1]。入学間もない5月に出場した水戸市の相撲大会で3位に入り、この活躍が尾曽正人(水戸尾曽相撲道場主宰。武双山正士の父親)の目に留まった。尾曽の誘いを受け週1回、道場の土俵がある茨城県立水戸農業高等学校に通い、尾曽の指導を受ける[3]。中学2年時には全国中学校相撲選手権大会(全中)個人戦に茨城県代表として出場したが、予選で1学年上の加藤精彦(高見盛精彦)に敗れた。中学3年時の全中では決勝で同学年の岡部新(玉乃島新)に勝って優勝し、中学生横綱になった。高校はそのまま水戸農高に進み、相撲の練習に没頭する[4]

明治大学相撲部から勧誘を受け、明大に進学する。明大を選んだのは、姉が日本大学に進学していて日大相撲部の層の厚さは聞いていたことや、当初より「姉の通う大学より、偏差値の高い大学に行こうと決めていた」としている[5]1997年(平成9年)9月の東日本学生相撲個人体重別選手権無差別級と1998年(平成10年)4月の全日本大学選抜相撲宇和島大会でそれぞれ優勝して大学二冠を達成すると、大学3年次の6月に中退して武蔵川部屋へ入門、同年7月場所に幕下付出初土俵を踏む。当時の幕下付出の条件としては1997年(平成9年)の全日本相撲選手権大会で3位入賞(準決勝で田宮啓司(琴光喜啓司)に敗れる)の実績を残していた[6]。直接の動機として、中学時代からのライバルで東洋大学に進んでいた岡部が先に中退して角界入りしていて焦りを感じていたことを挙げている[7]
入門後~幕内昇進

武蔵川部屋では、学生相撲出身者に有りがちな立合いの甘さを厳しい指導で真っ先に改善させ[8]、初土俵の7月場所と翌9月場所の2場所連続で全勝優勝を果たし、同年11月場所では十両に昇進した。その勢いは止まらずに同場所を12勝3敗で3場所連続優勝、1999年1月場所は西十両筆頭の地位で幕内力士との対戦もある中で14勝1敗の好成績を残し、4場所連続優勝を果たすと同時に新入幕を確実なものにした。新入幕の同年3月場所は中盤まで優勝争いの一角に食い込むも終盤戦に役力士との対戦が続けて組まれたことで二桁勝利はならなかったものの、9勝6敗で敢闘賞を受賞、初土俵から所要5場所での三賞受賞は当時の最速記録である。あまりにも早過ぎる昇進のために幕内力士でありながら大銀杏どころか丁髷も結えず[9]、荒々しい風貌から「平成の新怪物[10]と呼ばれた。幕内2場所目の同年5月場所で初めて丁髷を結うも、入門以来初めての負け越しを経験する[10]

四股名は初土俵時は本名の「竹内」とし、十両昇進時に下の名の「雅人」から取って「雅山」に改めた[11]。この四股名は尾曽が考えたものだが、候補の中には「雅風」もあり、雅山自身はこちらの四股名も気に入っていたとしている。
大関昇進

2000年(平成12年)1月場所は新小結で優勝次点となる12勝3敗の好成績を残すと、翌3月場所は関脇で11勝4敗、この時点で5月場所の成績次第では大関昇進の基準とされる「三役で三場所計33勝」の可能性が見えたが、審判部長の境川(元横綱・佐田の山)は「星の内容次第」と慎重な姿勢を見せた[12]。その5月場所は11勝4敗とし、3場所合計34勝とし、場所後の理事会で大関昇進が決定する。昇進伝達式で雅山は「初心を忘れず、相撲道に精進、努力します」と口上を述べた[13]。初土俵から所要12場所での大関昇進は史上1位のスピード出世である。

この大関昇進については決定前から異論が相次いだ。理事会に諮る前の審判部内の幹部会合で、境川は「雅山は今場所、上位に勝ったのは、すでに大関転落が決まっていた貴ノ浪だけで、優勝した小結魁皇との一番でも、立ち合いの未熟さを露呈して敗れた」旨を指摘し「内容重視」の姿勢を崩さなかったが、審判部副部長の武蔵川は直近の大関昇進の事例と比較しても雅山の34勝はひけを取らないとして「勝ち星重視」を強調した。貴ノ浪の大関転落で空席ができたことも追い風となり、もう一人の審判部副部長の九重(元横綱・千代の富士)が武蔵川に同調して、2対1で「理事会の招集要請」となった[14]。理事会においても「時期尚早」との声が上がり、採決の結果、7対3の賛成多数で昇進が決定した。「満場一致での推挙」となるのが普通となる理事会では異例の、約30分の長時間審議の末の多数決による決定だった[13]。雅山は新入幕ごろまでは巨体と柔らかい腰にものを言わせて、土俵際を反り身でこらえ、相手の攻め疲れを待つ消極的な取り口だったが、「自分から攻めないと上位には通用しない」と師匠に諭され、突き押しを磨き始めた。ただ組んだときにはまだまだ体頼みの大ざっぱな相撲で、廻しの取り方に厳しさがなく、貴乃花戦では手も足も出ず投げ飛ばされた。立ち合いについても「小手先の駆け引きが目立つ」と注文が付き、また同部屋力士が上位に多く白星に恵まれる立場にありながら5月場所では優勝争いに全然加わっていない点や、学生相撲出身でまだ角界の経験が浅い点などが、昇進に対する慎重論として指摘された[15]

新大関として迎えた7月場所は、場所前の取材に対し「まわりの期待を良い緊張感にして、伸び伸びと自分の相撲を取りたい」と屈託なく言い切り、新大関優勝を狙う姿勢を示したが[16]、初日の栃東大裕戦で右肩を負傷した影響が最後まで響き6勝9敗と負け越し、同年9月場所はいきなりの角番となってしまう。この場所は勝ち越して角番を脱出するも8勝7敗の成績で、本来の大関の成績とはかけ離れたものとなった。


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