雄呂血
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雄呂血
Orochi
タイトル、キネマ文字。
監督二川文太郎
脚本寿々喜多呂九平
原作寿々喜多呂九平
製作総指揮牧野省三
出演者阪東妻三郎
環歌子
音楽清水靖晃(4Kデジタル修復版)[1][2]
撮影石野誠三
製作会社阪東妻三郎プロダクション
配給マキノ・プロダクション
公開 1925年11月20日
上映時間75分
101分(4Kデジタル修復版)
[1]
製作国 日本
言語日本語
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『雄呂血』(おろち)は、1925年(大正14年)製作・公開、二川文太郎監督による日本サイレント映画剣戟映画である。阪東妻三郎プロダクション設立第1作であり、日本に「剣戟ブーム」を起こした記念碑的作品である[3]
ストーリー雄呂血のシーン

「世人…無頼漢(ならずもの)を称する者、必ずしも真の無頼漢のみに非らず。善良高潔なる人格者と称せらるる者必ずしも真の善人のみに非らず。表面善事の仮面を破り、裏面に奸悪を行う大偽善者。亦、我等の世界に数多く生息する事を知れ…」

時は享保の頃、ある小さな城下町。

漢学者松澄永山の娘・奈美江と、その弟子で正義感の強い若侍・久利富平三郎はひそかに愛し合っていた。平三郎は師の誕生祝いの夜、同門の家老の息子の浪岡の無礼を怒り、腕力沙汰に及んだことから破門を命じられる。また奈美江を中傷誹謗していた家中の若侍を懲らしめたことが逆に永山の誤解を招き、師からも破門され、石もて追われるように故郷を捨て、旅に出る平三郎。

平三郎は自分が正しいと信じてやったことが事毎に周りから曲解され、そのこころは次第に荒んでいき、無頼の浪人となり下がり、虚無の深淵に沈んでいく。

たまたまある町の料亭で働く千代を知り、女の情を求めて牢を破って訪ねたもののすでに千代は人の妻となっていた。捕吏に追われた平三郎は侠客・次郎三[4]のもとへ飛び込むが、この侠客が喰わせ者。病に難渋する旅の夫婦を助けたは良いがその妻に言い寄り手篭めにしようとする。しかもその妻女こそ、かつての恩師の娘、初恋の人の奈美江であった。

平三郎の白刃一閃、見事次郎三を斬り捨てるがもはや脱出かなわず、十重二十重の重囲のなかに堕ち、乱闘又乱闘の大立ち回りの末、ついに力尽き捕えられ、群衆の悪罵を浴び引かれていく。その中に涙に濡れ、平三郎を伏し拝む奈美江夫婦の姿があったことを、群衆の誰一人知る者はいなかった。
概略クライマックスシーン。町のセットでの大立ち回り。

1925年(大正14年)6月、23歳の若きスター、剣戟俳優阪東妻三郎東亜キネマから独立し、「阪東妻三郎プロダクション」を設立、記念すべき第1作として製作されたのが本作、『雄呂血』である。

同時期に東亜キネマから独立した牧野省三が総指揮を執り、鬼才と呼ばれた寿々喜多呂九平がオリジナル脚本を書き、『快傑鷹』(1924年)の二川文太郎が監督した[5]。寿々喜多も二川も、マキノ映画時代からバンツマ映画を支えてきたバンツマの盟友だった。

初め『無頼漢』というタイトルであったが、検閲からのクレームがつき、おびただしいシーンのカットの末、『雄呂血』に改称された[6]。ロケは奈良市東大寺氷室神社で行われた[7]

本作は、マキノ・プロダクションが配給し、マキノ東京派の高松豊次郎が経営する浅草の映画館・大東京をフラッグシップに、同年11月20日、全国公開された[5]。ただし、公開順は東京の吾嬬撮影所で撮影した第2作『異人娘と武士』のほうが先であった。

阪東妻三郎は独立第一作ということもあって、本作のフィルムプリントを桐箱に納めて手元に保管していた[8][9]。妻三郎の没後、神戸市の興行師が所有していたプリントを10数年の説得を経て、興行師の死去に伴い弁士の松田春翠が譲り受けて1965年7月7日に共立講堂で再公開された[8][9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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