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隻眼(せきがん)もしくは独眼(どくがん)は、片側の目そのものや視力を失った身体障害の状態をいう[1][2]。
病気(腫瘍など)の内因の他、事故や戦闘中の負傷など外因、奇形による先天的な要因の場合もある。外因により視力を失った際、多くは反対側の眼にも失明を及ぼすため、片目を喪失した者のうちで隻眼となるのは多数ではない。目が失われたために義眼を入れたり、眼帯などで隠し、自らの威厳の誇示を兼ねることがある。「隻」とは「対になっている物の片方」を数えるときに用いる助数詞である。
現実の隻眼ミジンコを背面から。頭頂部に1つの眼を持つ。
現実の隻眼の人物は、正常な位置にある2眼のうち1眼が失明しているケースがほとんどである。片目失明の原因は、先天性であることは少なく、病気や外傷など後天性の原因が主である。他に、両目失明ののち片目だけ治療(角膜移植など)するケースもある。
神話上のサイクロプスなどのような、顔の中心線上に一つの目を持つケースもなくはないが、単眼症という重度の先天障害であり、死産かさもなくば生後まもなく死亡する。
一つ目の動物は、大型動物では奇形以外では見られないが、ミジンコなど一部のプランクトンが、中心線上に1つの眼を持つ。ただしこれらは肉眼では確認困難なため、神話伝承とは無関係と思われる。なおミジンコは、大きな複眼の下にごく小さな単眼を持つため、厳密には眼が上下に2つあることになる。 日本の障害者認定制度では、片目失明というだけでは視覚障害者認定はされない。ただし実際には、他眼(見える方の目)にも障害があること、他眼に過度の負担がかかることが多く、その場合はそれに応じた認定がされる。最も軽い6級の認定条件は、一眼の視力(矯正視力。以下も同じ)が0.02以下、他眼の視力が0.6以下で、両眼の視力の和が0.2以上(0.2以下だと5級になる)である。6級より上の認定条件は全て、両眼の視力の和か両眼視野が基準になっている。 運転免許証の取得条件は、普通自動車については健常者とほとんど違いがなく、片目の視力が0.3未満なら、他眼の視力が0.7以上(これは健常者と同じ)で、視野が150度以上が必要となる。ただし、大型、第二種等は取得できない。 眼球を摘出したか眼球が萎縮した場合は、義眼が使われることが多い。視力を回復する機能はなく、あくまで萎縮した眼球、眼窩の保護や美容目的である。まぶたなどの周辺組織も失われたときは、義眼床手術も必要になる。 義眼を入れても完全に自然な外観にすることは難しいため、義眼を入れた上でさらに眼帯、サングラス、ガーゼなどを併用する人も多い。眼帯などは、義眼を使っていなくても美容上問題のある場合(義眼が必要だが入れていない場合、あるいは、眼球は外見上正常だが周辺組織に傷がある場合、など)にも使われる。 ここでは、なんらかの著名性または重要性があると思われる(日本でのみ有名、なども含む)隻眼の著名人を列挙する。隻眼といわれているだけで実際にはそうではなかった人物や、隻眼でなかった可能性のある人物も含む。 なお、漢字文化圏において、隻眼と関連性の高い「眇
身体障害として
義眼など詳細は「義眼」を参照
隻眼の著名人ヤン・ジシュカの肖像画眼帯をしたモーシェ・ダヤン(右)。
ピリッポス2世(前382年 - 前336年) - アルゲアデス朝マケドニアの国王で、アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)の父。
アンティゴノス1世(前382年 - 前301年) - アルゲアデス朝マケドニアの将軍で、アンティゴノス朝マケドニアの創始者。
アンティゲネス(? - 前316年) - アルゲアデス朝マケドニアの将軍。ペリントス包囲戦(紀元前340年)で片眼を失った。
ハンニバル(前247年 - 前183年) - カルタゴの将軍で、第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)の英雄。
左慈(生没年不詳) - 後漢代末期・三国時代の中国の方士。色濃く伝説に彩られ、仙人として描かれる人物だけに、真偽のほどは疑わしい。
夏侯惇(? - 220年) - 後漢代末期・三国時代の中国の曹魏の武将・政治家。王沈の『魏書』によれば、敵の流れ矢が左眼に当たって負傷したことから、同族・同僚で同じく有力武将であった夏侯淵と区別できる「盲夏侯」というあだ名で呼ばれるようになったが、夏侯惇はこれを嫌がり、鏡で自分の顔を見るたびに怒って鏡を投げ捨てたという。なお、射抜かれた自らの片眼を食べたという話があるが、歴史小説『三国志演義』による創作である。
丁儀(? - 220年) - 後漢代末期の中国の曹魏の政治家。眇(すがめ)であったという。
苻生(335年? - 357年) - 五胡十六国時代の中国の前秦の皇帝。眇であったため、不吉な鬼子としてとりわけ祖父に忌み嫌われたという。
殷仲堪(? - 399年) - 五胡十六国時代の中国の東晋の武将。度量が広く、部下から眇のことをあてこすられても許したという。政治家として優れていたが軍事の才はなく、桓玄を討とうとしたが、連戦連敗を喫した挙句に自殺した。
蕭繹(508年 - 555年) - 南北朝時代の中国の南朝梁の皇帝。幼少時に病気で片目を失明した。
李克用(856年 - 908年) - 唐代末期中国の軍閥指導者で、後唐の始祖。眇の武将であったため、「独眼竜」と呼ばれた。
弓裔(857年? - 918年) - 朝鮮史の後三国時代の後高句麗の王。新羅の王子とされ、幼いときに事故で片目を喪う。僧となり、弥勒の世の建設をとなえ信賞必罰の公平さで勢力を伸ばすが、暴君化して、王建に倒される。
レーモン・ド・サンジル(1052年頃- 1105年)- 第1回十字軍の指導者の一人。トゥールーズ伯およびプロヴァンス辺境伯。